導入｜「聖人君子でありたい」という呪いの祈り
「聖人君子でありたい」──この言葉が、どれほど痛々しく、絶望的な響きをもっているか、しゃいとの同名曲を聴いた者なら誰しも気づくだろう。善良で、非の打ちどころがなく、誰にも嫌われず、あらゆる場面で最適解を提供できる「正しい人間」であろうとする祈り。その純粋さが裏目に出て、むしろ誰よりも傷つき、追い詰められていく語り手の姿は、まるで微笑を強いられた人形のようである。
本楽曲の語り手は、他者の感情や社会の空気に過敏に反応し、「中傷も誹謗も真っ平」「製品価値だけ頂戴な」と自らを市場化された存在として差し出しながら、無理に笑顔を貼りつけて日々をやり過ごそうとする。しかしその裏では、「銃口を向けてくる他者」「焼き付いた悪意」「不可逆の断頭台」など、暴力的なイメージが次々と現れ、やがて自我の崩壊が静かに進行していく。
ここに描かれるのは単なる「傷ついた善人」ではない。むしろ、現代社会において強く要請される「善良さ」や「感情の管理能力」――すなわち理想的人格への適応努力が、どれほど人格そのものを摩耗させていくかという、冷徹なリアリズムである。本稿では、この楽曲の語り手を“人格モード”という観点から読み解きつつ、その背後に潜む制度的な疎外の構造を掘り下げていく。なぜ彼／彼女は、「聖人君子でありたい」という願いと引き換えに、動けなくなってしまったのか。その理由を解き明かしていくことが、私たち自身の現実にも繋がる問いとなるだろう。
本論①｜「良い子のA to Z」──理想の人格に押し込められる語り手
本楽曲においてまず注目すべきは、「良い子のA to Z」という言葉に象徴される、理想的な振る舞いのマニュアル化である。AからZまで網羅された“正解”の型が存在し、それをなぞることによって初めて人は受け入れられる。語り手はその全体を身体化しようと試みる。「至らぬとこは笑顔で満たして」「誰もに好かれる道化師になって」などの歌詞に見られるように、感情の凹凸を消し、自身を“最適化された善性”に変換する姿勢が読み取れる。
だがここで問題なのは、それが本人の意志というよりも外部の要請に対する自己調整に過ぎないことだ。冒頭の「そのヒステリックな情緒」「日和見のメッセージ」といった周囲への不信や違和感は、語り手が“世界の側”の理不尽さに気づいている証拠である。にもかかわらず彼／彼女は、「笑顔は解けない」「まだ動けないまんま」と、自分を縛る“良い子”の仮面を脱ぐことができない。
この構造は、現代の若者が直面する「感情管理社会」の風景と深く結びついている。SNS上での人格演技、職場や学校における“空気を読む力”の強制、常に「最適」であることが暗黙の期待とされる時代。その中で、「聖人君子でありたい」という一見前向きな願いは、実のところ自傷的な規範服従へとすり替わっている。善性は内発的な美徳ではなく、他者の評価を生き延びるためのスキルとして配置されているのだ。
この意味で「良い子のA to Z」とは、人格の多様性を認めない社会が与える生存条件の暗号化であり、それに適応できなかった者は、ただ「動けなくなる」しかない。
本論②｜笑顔という呪い──擬態と耐性による自我の摩耗
「笑顔は解けない」「フラついたステップ」「やり過ごしていこう」──これらのフレーズに共通するのは、不安定な均衡を保つための擬態的なふるまいである。語り手は、崩れそうな足場の上で、ただ倒れないこと、ただ嫌われないこと、ただ“最適”であり続けることだけを目標にしている。そこには自己表現の自由はなく、あるのはただ「傾いて崩れたりしないよう」という、消極的な耐性の連続である。
この姿勢は、単なる“気遣い”や“配慮”ではなく、自己喪失の契約そのものである。語り手は明確に「契約破棄して頂戴な」と述べる。これは、社会とのあいだに結ばれてしまった非対称的な合意――「あなたに好かれる代わりに、自分を殺す」という密約への拒絶だ。
「誰もに好かれる道化師になって」という一節に表れるように、彼／彼女は“誰か”の特定の欲望に応じるのではなく、「みんな」の欲望に応じることそのものを目的として振る舞っている。だが、その「みんな」は実体のない抽象的な他者であり、その要求は常に更新され、正解のないまま膨張し続ける。いわば、語り手は終わりなき検査を受け続けているようなものであり、それが「不可逆の断頭台」という言葉に象徴されるような人格の執行猶予を構成する。
さらに興味深いのは、ここに“笑顔”が重要なモチーフとして機能している点である。本来、笑顔は他者との親和を示す非言語的表現であるはずが、この曲では人格の仮面に変質している。「至らぬとこは笑顔で満たして」という台詞は、自己の欠落を隠すための感情パッケージとして笑顔を使用しているに過ぎない。笑顔はもはや感情の発露ではなく、「良い子」として受け入れられるための商品的インターフェイスと化している。
この擬態的笑顔を支える努力の総体こそが、「聖人君子でありたい」という言葉の裏にある自己処罰的な構造である。それは、他者を喜ばせたいという願いではなく、攻撃されないための防衛としての善性であり、まさに“呪い”としての笑顔である。
本論③｜降参の美学──断絶と暴力の風景
「もう全部全部放り投げて 降参」──この終盤の一節は、それまで耐え続けていた語り手の心的崩壊の瞬間を、極めて静かで、それでいて決定的な言葉で表現している。ここに至るまで、語り手はあらゆる局面で“やり過ごし”を選んできた。「擬態して飄々」「傾いて崩れたりしないよう」──このような慎重なステップは、世界に対する抗議を封じ、自己を守る戦略であった。
しかし、語り手を取り巻く世界は、それでもなお暴力的である。「銃口を向けて見えるのは如何して？」「焼き付いた悪意」など、他者からの攻撃性は決して消えることなく、むしろ“聖人君子”を装えば装うほど、標的としての自分が輪郭を強めていく。ここにあるのは、善性そのものが攻撃の理由になってしまう倒錯である。
語り手は、自らを守るために“良い子”であろうとした。しかしその姿勢が、かえって他者の憎悪や嫉妬、欲望の捌け口になってしまう。これは現代における「共感疲労」や「正しさの消費」の問題と重なる。正しくありたい者が、最も強くバッシングされ、最も深く追いつめられていく。その構図は、「不可逆の断頭台」や「グラついたステップ」といったイメージに、確かな現実味を与えている。
また、最終盤の「望んだのは貴方がたでしょ」という投げかけは、語り手の沈黙を破る最後の抵抗でもある。「理解できないな」で始まったこの楽曲は、最後に「理解できないのはあなたたちだ」と、語り手が沈黙の位置から問い返すことで終わる。この逆転は、彼／彼女が一瞬でも「仮面」を外し、問いの主体に立ち返ったことを意味している。
だがその声も、すぐに再び「聖人君子でありたいの」という呟きに埋もれていく。この繰り返しの構造が示しているのは、語り手が完全には自由になれないこと、降参すらも肯定的な終結にはならないことである。それは、誰にでも起こりうる「善性の崩壊」のリリックであり、私たちが生きる社会の鏡像でもある。
結論｜「聖人君子でありたい」は誰の願いだったのか
しゃいとの『聖人君子でありたい』は、単なる“優等生の苦悩”や“良い人の悲劇”を描いた楽曲ではない。それは、現代において人格そのものが最適化され、評価経済の中で管理されるというリアルな風景を、鋭く切り取った作品である。「良い子のA to Z」に準拠し、「笑顔」で欠損を覆い、擬態的にやり過ごすという一連の行動は、語り手が選んだものではなく、生き延びるために強いられた演技にほかならない。
「聖人君子でありたい」という言葉は、もはや内発的な理想ではなく、社会に投影された“べき論”を内面化した呪文である。その呪文を唱えるたびに語り手の自我は侵食され、ついには「契約破棄」「降参」「不可逆の断頭台」へと至る。ここにあるのは、善性という価値観の暴力的転倒であり、正しくあろうとすることがむしろ抑圧の回路を形成していくという、逆説的な構造である。
重要なのは、この構造が語り手個人の問題ではなく、**現代を生きる多くの人々の“実存的共通体験”**であるということだ。私たちは皆、誰かに「好かれること」や「正しくあること」を武器にして社会を生き抜こうとする。だが、その努力が報われるどころか、自分を追いつめ、声を奪い、最後には「笑顔が解けない」自分だけが残るとしたら――その善性は、本当に私たちのものだったのだろうか。
『聖人君子でありたい』は、現代における“善き人であろうとすること”の限界を問い直す作品である。それは他者への怒りでも、自己嫌悪でもなく、ただ静かに、しかし決して消えることのない“問い”として、私たちの胸に残り続ける。
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