序章:ここには一つの兆候がある
こんな見出しから始めようと思う。
ここには一つの兆候がある、と。
扱うのはみきとPの名曲であり、現代でも根強い人気をほこる『ロキ』である。
さて、さっそく冒頭の言葉に戻ろう。この曲には、どのような兆候があるのか。
それを確かめるために本稿では例によって、この曲の歌詞から特徴を抽出し、
本作品が取り巻く環境や時代を眺めていく。これが「兆候」を掴む唯一の方法である。
ここまでの前置きで読者を離脱させないために、先んじて言えば、この「兆候」とは欲望であり、現代において挫折したものとされるものなのだ。翻っていえば『ロキ』は現代でも聞く価値を失わないと断言ができる。これこそが『ロキ』を名曲にしている理由であり、本稿をつうじて皆にオススメする理由だ。
第一章:「覚悟」を要求する歌——『ロキ』に通奏低音として流れるもの
ハイテンションなテンポ。挑発的な曲。意味深長で、考察欲をそそるようなリリック。みきとP『ロキ』の魅力を語り尽くすには、ページがいくらあっても足りないだろう。
とはいえ、本曲の通奏低音には、とある強迫観念がある。つまり「このままではいけない」という切迫した感情だ。
たとえば「君の全てを曝け出してみせろよ」や「教祖はお前だ」という歌詞にそんな強迫観念が浮かんでいる。より具体的にいえば、この曲は聞き手に「覚悟」を求める。
「あの子を撃ち抜いてみせろよ」や「キメろ Take a “Selfy”」( Selfy=自撮り)という言葉も、これら「覚悟」の要請の例としていいだろう。
さらに続けよう。この覚悟の要請の内容は、「匿名」であること、「少年」(あるいは少女)であること、「人見知り」を自称することの否定である。逆にいえば、実名であれ、少年・少女ではなく「大人」であれ、人見知りといわず「他者」と向き合え、ということでもある。
とはいえ、サブカルチャー史でみれば、この「大人になれ」あるいは「現実と向き合え」という命令は珍しいものではない。繰り返されてきた命題である(そのように訴える代表的な作品に『新世紀エヴァンゲリオン』がある)。
だからこそ問題は、なぜ『ロキ』がそのように訴えるのか、という点に重心を移動させなければならない。換言すれば『ロキ』はなぜ「大人になれ」と命令するのか、ということになる。
『ロキ』の歌詞から考えてみよう。仮に、この曲に流れる命令に背いたらどうなるのか。答えは簡単だ。「死ぬんじゃねえぞ」というフレーズのとおり、本曲の背景には「死」が存在する。少なくともそのように仮定されている。
ここに筆者は、一つの「兆候」をみる。それは「インターネットへの自閉の崩壊」である。
第二章:挫折した変革と、その行きついた先——例えば『オーバーライド』について
思い出してほしいのは、本曲がリリースされた年が二〇一八年であるということだ。『ボカロ曲史私論』や『抜錨』論でも述べたとおり、この時期のボーカロイドムーブメントは、一つの終焉、あるいは停滞と迎えていた。だからこそ、多くの作品は「これからどうすべきか」という内省を強いられたのである。繰り返しになるが、本曲と同じく、少年
少女時代との離別を通奏低音とした曲には、同年に発表された『抜錨』がある。
また一方で、サブカルチャーの風景も、この時期には既に大きな変化を迎えていた。ボーカロイドと近しいところでは、ハチとして活動していた米津玄師の変化が代表的だ。このことについて、評論家の藤井義允はアルバム『YANKEE』以降の流れに注目し、以下のように語る。
「米津が自閉空間を志向するこのではなく『YANKEE』以降に他者を意識したことはこのような流れに沿うものとなる」(『擬人化する人間』)。『YANKEE』自体は、二〇一四年の発売であり『ロキ』のリリース時期とはズレている。しかし、米津自身がその後、かつてのボカロへのあだ花として『砂の惑星』を発表したことは決して無視できないだろう。ボカロ文化が成熟した自閉的なインターネット空間、あるいは「セカイ」は、遅くとも二〇一七年には、一つの終焉、あるいは変革をインターネット空間の愛好者に強いたといえる。
そのような観点から、『ロキ』は先のような変革の雰囲気、「このままではいけない」という強迫的な変革志向を鋭敏に汲み取った曲ともいえるだろう。
しかし。
しかし、である。
誤解を恐れずにいえば、この死に物狂いの変革は挫折することになった。いや、思わぬ方向に進んでしまった、といえるのかもしれない。
その挫折の姿を、もっとも露骨なかたちで示しているのが吉田夜世の『オーバーライド』だろう。
「限界まで足掻いた人生は想像よりも狂っているらしい」
「豪快さにかまけた人生はきっと燃やされてしまうらしい」
ここまで読んだ読者は、これらが『ロキ』が指し示した方向の行きつく先だということは、直観的にわかるだろう。
この結末がどうして生じてしまったのか、ということについては別のところで語るとしよう。とはいえ、「大人」への欲求に突き動かされ、「インターネット空間」という故郷を捨て去り、脅迫的な観念を背負ったまま死に物狂いで実社会を生きようとしている人々の世界が「想像よりも狂っているらしい」というのは、皮肉なことに、今の私たちにとっては想像に難くない。
そして、恐らく、そのようにならないためには『ロキ』が語っていたように「死ぬんじゃねえぞ」と語りかけてくれる「他者」の存在ではなかったのか、と思う。
その証拠に『オーバーライド』のほうは「大丈夫か?」という声に「うるせえよ」と答えてしまっている。
みきとPの『ロキ』は今でも私たちに語り掛けてくる。「死ぬんじゃねえぞ」と語り掛けてくれる大切な他者は、君の身近にいるのか、と。
結論:それでも『ロキ』は伝え続ける
いかがだっただろうか。
別のところでも語ったとおり、名曲が名曲であるのは、聴く価値を失わないからだ。それはつまり、時代の象徴であり、接続点であることでもある。そして、どんな時代でも大切なことを訴えてくれることもまた価値を失わないためには大事なことだ。
『ロキ』は今でも二つのことを語り掛ける。「大人になれ」ということと「一人で抱え込むな」ということ。死に物狂いで生きるしかない、失敗の許されない現代において、このメッセージは、いまだに輝きを失っていない。


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