【歌詞考察】マンボウP『クワガタにチョップしたらタイムスリップした』未来の自分が教えなかった、本当に大切なこと

帰ってきた家の裏でマンボウが死んでるP

序章:平成の名曲、再び。

懐かしい曲を聴くことは、いいことだ。

現在は、多くの周年記念によって様々な「懐かしい」が新鮮な姿で私たちの前に姿を現してくれる。そして驚く。歳月を経たことで、新しい発見を私たちにもたらしてくれるからだ。

帰ってきた家の裏でマンボウが死んでるP『クワガタにチョップしたらタイムスリップした』は、私にとってそんな曲だった。つい先日、十五周年を迎える本曲がリブートした。

当時、つまり十五年前の私は本曲について「何を食べたら、こんな想像力が湧いてくるんだ」と思ったものだ。製作者の名前はもちろんのこと、「クワガタにチョップしたら」などという突飛な想像力に笑った記憶がある。

そして先日、改めてこのリブート版を耳にしたとき、この想像力は令和の現代でも、いや、だからこそ、唯一無二の輝きをもって私たちの前に姿を現してくれた。

そう。本論で考えたいのは、この「だからこそ」の部分である。

この「だからこそ」は『クワガタにチョップしたらタイムスリップした』という名曲にさらなる光輪をもたらした。このことを考えるためのキーワードは「人生のネタバレ」である。ではさっそくみていこう。

第一章:人生のネタバレは、本当に存在するのか

『クワガタにチョップしたらタイムスリップした』は、物語風の作品である。主人公である「私」は、タイトルのとおりクワガタにチョップをしたら未来都市にタイムスリップしてしまった。そして、そこで目にしたのは自分の子孫の姿。そして、余命幾ばくも無い年老いた自分の姿だった。そんな未来の自分は、タイムスリップしてきた「私」に、「これから」の様々な苦労や幸福について語る。その話を聞いた「私」は涙を流しつつも、もとの時代に帰る。これが本曲のストーリーだ。

繰り返しになるが、クワガタにチョップや「リアス式歯並び」といった風変わりだけれど耳に残るリリックを除けば、ある種のSF作品として視聴した場合、ストーリーラインは平凡なものだと思う。

しかし、本当に大切なことはそこではない。

その「大切なこと」を語る前に、一つ注目すべき部分が、本曲にはある。

それは年老いた自分が、タイムスリップしてきた私に次のように語る箇所である。

「これから君は何度でも/何度も何度も後悔し/何度も何度も傷ついて/何度も何度も泣くだろう」

「何も知らずに帰りなさい/私はちゃんと幸せだ」

このパートを耳にしたとき、私は、以前ネットで盛り上がったワードを思い出す。「人生のネタバレ」である。

この単語の意味は次のようなものだ。人生には隔絶とした格差が最初から設けられており、ある程度のことは最初からわかってしまっている。また、その状態についてSNSの普及により、よりつまびらかな状況が、わかってしまう。このことを皮肉っぽくしたワードが「人生のネタバレ」である。

なるほど。このような観点を踏まえれば、『クワガタにチョップしたらタイムスリップした』において、「私」も人生のネタバレを被っている。

しかし、ここで重要なのは、その語られ方である。

「後悔」「傷ついて」「泣く」そして「幸せ」。

これらの「ネタバレ」の共通点は、「出来事」ではなく「体験」だということだ。

先程筆者は、「人生のネタバレ」という言葉について「状況がわかってしまう」と書いた。

だが、それは果たして本当に「ネタバレ」なのだろうか。

道端に花が咲いている。

映画をみて心が揺さぶられる。

好きな人が出来る。

それら「体験」は決して「ネタバレ」にはならない、誰も明らかにできない自分だけの心の動きだからだ。

本曲でも年老いた「私」は、そのことを訴える。

死ぬ間際の「私」はこうもいう。

「今すべて教えればきっと/今日死ぬ運命さえ変えられる」

しかし、それを拒否する。

なぜか。

問題は「出来事」ではないからだ。多くの「体験」をしてきた。大きなこと、小さなこと、たくさんのことで心が動いてきた。だから、これでよし、と思ったのだろう。運命を受け入れたのだろう。

そう。

私たちの生にとって重要なのは年表ではない。大切なものは心である。

そんなことを、かの老人は訴えているのである。

第二章:「わかる」が増えた時代に

ところでLLMというものを、読者はご存じだろうか。AIに用いられる技術の一つである。これは端的にいえば、ある単語に続くとされる言葉のなかで、もっとも選ばれる確率が高いものを選び出すというものなのだが、この技術によって、私たちにとってAIは、まるで「喋ってくれている」ように感じることができる。だが、その実は、あくまで確率論的に計算されたものであり、LLM自体は「意味」を理解しているわけではない。

だが、先程もみてきたとおり、現代では、そのような「確率」が利便性をもたらす一方で「人生のネタバレ」という言葉にあるように、本当に大切なことを見えにくくしている。

LLMは、そのような意味において象徴的な技術だ。

次に訪れる言葉や出来事を、高確率で的中さえ、それによってさながら「わかってしまう/わかられた」感慨が我々の生を覆いつくそうとしている。

しかし、「だからこそ」なのである。

だからこそ、私たちは、いまだにこの曲から新鮮な感動を得ることができる。

恐らくLLMでは「クワガタ」に「チョップ」するという文章は生成できないだろう。意味不明だからだ。LLMでは「帰ってきた家の裏」で「マンボウ」が死んでいる状況を描けないだろう。

本曲、あるいは、この製作者の名前をもって、私たちは、あらゆる「高確率」が跋扈する世界でも新鮮に驚くことができる。

振り返ってみてほしい。

私たちは「客観的」なものだけで、すべてを知った気になっていないだろうか。

わかった気になっていないだろうか。

善悪の判断を下していないだろうか。

そんな「高確率」と「客観性」にまみれている生は、本曲の冒頭で歌われる「無機質な空」に覆われているような、無味乾燥なものとなるだろう。

故に、本曲は光輪で彩られる。平成の名曲は、令和においても本当に大切なものを示すため、私たちの前に姿を現してくれた。

結論:「平成原人」が夢見るタイムスリップ

「平成原人」という言葉が、この曲には登場する。

「インターネット老人」という言葉に似たような、ただ過去を懐かしむ姿を自虐的に表すようなフレーズのように聞こえる。

けれど、思えば「平成」は、色々な「体験」が出来た、あるいは、試みた最後の時代だったのかもしれない。

筆者の力量的に、今は、そのことを詳細に書くことはできないが、「体験」が今よりずっと重視されていた時代を考えると、私はリストカットという行為を思い出す。「体験」の基盤となる「肉体」、あるいは「病名」ではない「体験」をもって、私たちは必死に「心」を表現しようとした。

私は/僕は「悲しい」や「辛い」。そんな声なき絶叫だったのかもしれない。それが「ファッション」的な視線にさらされ、本来の訴えから空転してしまったのは、時代の流れによるものだろうか。

いや、そんなことを思ってしまうのは、私が「平成原人」だからなのかもしれない。そんなシニカルな視点に、思わず苦笑いが漏れてしまう。そして、きっとこの先何度も『クワガタにチョップしたらタイムスリップした』を聴くのだろう。「体験」があった時代へのタイムスリップする夢をみるために。

ライター紹介

この記事を書いた人
k-sato

92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

k-satoをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました