序章:『もっとうまく生きられないの?』に宿る現代的な苦しさ
「生きづらさ」というのは、今や多くの人が抱えているものだと思っている。けれど、その様相は時々刻々と変化しているのだ。
そう。「生きづらさ」の内実は時代と共に変化している。そんなことを思わせてくれたのが、あだちかすか『もっとうまく生きられないの?』という曲だ。
この曲には現代の「生きづらさ」が明確に宿っている。私たちがこれから見ていくのは、その正体と、その系譜だ。
これから展開される、一見すると社会学のような分析は読者に何をもたらすのか。
それは「生きづらさ」そのものを消すものではない。けれど、その正体を少しだけ別の角度から眺めるための補助線にはなるはずだ。
このことを理解するうえで先んじてキーワードを一つだけ提示しよう。
それは「願望」である。
ではさっそくみていこう。
第一章:語り部が望む「普通の人間」
繰り返しになるが、『もっとうまく生きられないの?』が、その曲名から直観的にわかるように「生きづらさ」を歌っている作品であることは疑いようがない。
しかし、問題は、この「生きづらさ」がどのような場面で生じているのか、という点だ。そのために歌詞をみていく必要がある。
歌詞をなぞってみると以下のような特徴があることに気づく。
「人が読める字で書けって言うがなあ」
「僕のニコニコはニヤニヤ寄り」
これだけでもわかるように、本曲において生じる苦しみはいずれも他者との比較であることがわかる。ここで読者は次のように思うかもしれない。「そんなことは当たり前ではないか」と。ご指摘は、ごもっともだと思う。他者との比較で生じない「生きづらさ」などがあるものか。
だが、ここで我々が目を向けるべきは、その「他者」について『もっとうまく生きられないの?』の語り部がどのような評価をしているのか、ということだ。
歌詞には次のようにある。
「普通の人間」
アクロバティックな議論であることは承知のうえで述べれば、語り部が劣等感を抱く原因となった「他者」は、語り部自身にとって「普通」であり、それにすら至らないが故に、語り部は「普通の人間」を志向する。語り部たる「私」は「普通」になりたい。
これも一見すると当たり前かと思うかもしれないが、冷静になってほしい。
劣等感を抱くとき、「普通」であることに絶望することもある。同世代、同年代が歩んでいる極彩色の人生は、「普通」である私にとってあまりにもまぶしい、といった具合だ。今やだれでもSNSを駆使していることを鑑みれば、「普通」であることに対する劣等感というのも存在するのは想像に難くない。
改めていえば、この「私」は「普通」ではないことに劣等感を抱いており、可能であれば「普通」になりたい、と望んでいる。
筆者が真に問題としたいのは、この二層構造なのだ。どういうことか。それを次章で説明していきたい。
第二章:「肯定」ではなく「適応」を願ってしまう時代
ここで一度、読者に問うてみたい。先に提示した二層構造、つまり「普通」に劣等感を抱いているからこそ、「普通」になりたい、というのは読者諸氏にとって違和感なく飲み込めただろうか。
実はここに「時代性」がある。そこで登場してもらいたいのが、冒頭で述べた「願望」というキーワードだ。
もし、本曲の語り部の「私」が目の前に現れるようなSF的事態が起きたなら、著者は次のように問いたい。
「「普通」になりたい、というのは本当に君の願いなのか」と。
さて、約十年前にヘルニア『取り柄のないクズだって生きてていいだろが』という曲が発表された。歌詞内容としては、不器用な「自分」を自覚しつつも、それでも誰かを愛したい、というラブソングとなっている。「生きづらさ」を歌っているという意味においては、『もっとうまく生きられないの?』と同じ系譜にあると考えて大過ないだろう。
ところで、この『取り柄のないクズだって生きてていいだろが』には注目すべき点がある。それがタイトルの『生きてていいだろが』という部分だ。ここにおいて『もっとうまく生きられないの?』との差異、ひいては、本曲が抱える「生きづらさ」の綻びがある。
先程、私は「願望」という点に注目した。その文脈からすれば『もっとうまく生きられないの?』は「適応」が「願望」となり、『取り柄のないクズだって生きてていいだろが』は「肯定」が「願望」となっている。
つまり先述した二層構造——「普通」ではないことに劣等感を抱いており、可能であれば「普通」になりたい、と望んでいる――というのは必ずしも自然な形ではないのだ。
「普通」でないことに劣等感を抱いていたとしても、それを肯定せよ、と『取り柄のないクズだって生きてていいだろが』のように歌うことができる。
しかし、である。
『もっとうまく生きられないの?』は「適応」を歌う。ここで私たちは二つの分析が行える。
一つは本来は「肯定」を望んでいるが、それが挫かれ、次点として「適応」を望んでいる、という考え。そしてもう一つが、そもそも「肯定」など思い至ることすらなかった、という考えである。
これら二つについてどちらが真実なのかという分析をここでは行わない。ただ、いずれにせよ「肯定」という願望の層から消去されている、というのは注目すべきことだ。
結論:「うまく生きられない」ことよりも悲しいこと
不思議なことだと思った。
少なくとも十年前と比べれば、時代は確かに「個性」を尊重してきたはずだ。
しかし、この「肯定」の喪失と「適応」の支持は、そんな「個性」尊重の逆をいく。どうしてこのようなことが起きたのか。
現代で起きていることを見渡せば、「適応」の支持は理にかなっているとも思う。変化する価値観や作法、何が正しく、何が悪いのかを瞬時に判断し、適応することが現代では必要とされているのだろう。
しかし、その要請は、誰かを「生きやすく」するものでもあるが、生きることへの「肯定」を根こそぎ簒奪するものではないはずだ。そんな本末転倒な結果があっていいはずがない。
かつて「生きづらさ」を抱えた一人の人間として、私は「適応」ではなく「肯定」を望んでもいいのではないか、と素朴に思う。
『もっとうまく生きられないの?』の本当の悲しさは「うまく生きられない」ことではない。そんな「肯定」すら奪われたところにあると思うのは筆者だけだろうか。

コメント