序章:「爆弾」に秘められたもの
100%趣味で書かれた考察になる。
これは某大ヒット小説の宣伝文句のパロディでもあるが、嘘ではない。
取り上げる作品はカンザキイオリ『爆弾』。不穏なタイトルだが、中身は恋愛の曲となっている。リリースは六年前の本曲の、一体何を「考察」しようというのか、と思う読者もいるだろう。
端的にいえば、この「爆弾」というタイトルに秘められたものが、これから探っていく対象となる。いや、厳密にいえば、この作業でわかるのは私たち自身のことだ。
本曲が名曲であることは疑いようもないことだが、一方でなぜ私たちがこの曲を「名曲」だと感じるのか。「名曲」が「名曲」たる所以。それを、私たちのなかに探っていく。
第一章:「傷つけられる」ばかりが恋ではない
本曲の情景は次のようなものだ。
季節は夏。「わたし」は恐らく「あなた」に恋をしていた。
そして歌詞の「どこかできっと同じ花火を遠い所で見ていること」という点から、この二人は物理的な距離も離れている。
そして「わたし」のパーソナリティについて述べれば、「こんな体でこんな見た目で自分を愛せるでしょうか」というフレーズを踏まえると、自己肯定感はそこまで高くない人物だということがわかる。
年代についても考えてみよう。「あなたもきっとお金とか生活とかに染まりながら」という部分から想像するに、将来の岐路が目前に迫っているものであると考えられないだろうか。「お金」「生活」。曲の全体に漂う夏の幻惑的な雰囲気のなか、唐突に登場する実生活に関わる単語が、そんなことを思わせる。
曲の概要は以上となる。いかがだろうか。誤解を恐れずにいえば、曲のなかのストーリーラインや情景には特異なところがあるようには思えない。にもかかわらず、私たちはこの曲に惹かれている。
その原因を、筆者はこの曲に現れる「加害性」と考える。この理由は後述するとして、まず「現れる」という部分に考えておきたい。
前提として、この曲の「私」は基本的に受動的であるという点は指摘しておくべきだろう。例えば「熱帯夜に溶けてしまいそうです」「夏蝉が馬鹿にして」などが、そのような姿勢を色濃く表している。
しかし、である。
「あなた」への感情については「あなたの全てをぶち壊すような」と歌う。これまで受動的だった自身の基本姿勢が、途端に「あなたの爆弾になれるでしょうか」と宣言にみられるような「加害性」を色濃く浮かび上がらせる。
管見の限りだが、ボカロ以外のミュージックシーンについても、このような「加害性」は、いつの頃からか見受けられなくなった。象徴的な対比として、尾崎豊の『十五の夜』とAdoの『うっせえわ』がある。前者は自身の鬱屈を「盗んだバイクで」晴らそうとしている一方で、『うっせえわ』は、その衝動をあくまで自意識のなかに留めている。
『爆弾』についても確かに具体的な暴力描写はない。しかし、前述したような「加害性」が極端に減少している現代において「あなたの全てをぶち壊すような」というフレーズは異彩を放つ。
「傷つけられる」ばかりが恋ではない。「傷つける」こともできてしまうのが、誰かを愛することなのだ。文字にしてみれば当たり前のことが、なぜ、私たちに響いてしまうのか。そのことを現代社会に照らし合わせて次節で考えてみたい。
第二章:「あなたの爆弾」になるということ
哲学者スラヴォイ・ジジェクは「カフェイン抜きのコーヒー、アルコール抜きのビール、脂肪抜きのクリーム」という例を挙げて、現代社会には「そのものを享受したい。でも、そのものに本来伴う危険・負担・不快さは排除したい」という欲望があると喝破している。
多くの読者にもなじみがあるはずだ。動かずに痩せる方法、勉強しなくても頭をよくする方法などなど。その例には枚挙に暇がないし、この極北に「タイパ」信仰がある。
更にいえばジジェクは、このような傾向の終着点として「他者性を取り除かれた他者」が現れるという。事実、SNSなどは、すでにそのような「他者」と簡単に出会える。同じような趣味嗜好、話題、共通点をもつ、自分と似たような「他者」の存在が、それである。
無論、そのような「他者」にも、裏切られることがある。完璧な「他者性を取り除かれた他者」など存在しない。
しかし、そのような「他者」と出会ったとき、そして「不快」が発生した時、現代を生きる私たちが得意とするポーズがある。
それは「弱者」だ。
例えばコロナ禍の際、飲食店バッシングが発生した。これは感染拡大防止策として協力金が飲食店に支給されることで「協力金バブル」と揶揄する言葉がSNS上でトレンドとなった。このことについて社会学者の伊藤昌亮は『曖昧な弱者の時代』のなかで次のように述べている。
「人々は飲食店を叩きながら、一方で自らがいかにつらいかを訴え合った。「自分だってつらい」という訴えは「自分の方がつらい」という訴えになり、さらには「自分のほうがもっと」という訴えになる。(…)自らの「弱さ」を競い合うという「弱者争い」が繰り広げられていた」
この「弱さ」の訴えについて、なかには実際に困窮しているものもあっただろう。
しかし、ジジェクや伊藤の分析を踏まえるならば、「危険」や「不快」に直面したとき、主体であることを放棄して、被害者という位置にのみ自己を固定してしまう態度は、「本来伴う危険・負担・不快さは排除したい」欲望があふれ出る現代において珍しいものではない。
だからこそ、『爆弾』は名曲だと筆者は思う。
誰かを好きになる。
どうしようもない別離が訪れる。
しかし、相手を恨むことなく、運命を呪うこともなく、「あなたの爆弾」という最大級の「他者性」あるいは「加害性」をもって、別れに臨む。
そう。
凡百のラブソングであれば、本曲にもあるような「あなたの言葉は爆弾のようで/私の全てをぶち壊すような」という「被害性」を訴えるだけで終わったはずなのだ。
しかし、恋をする、「他者」と出会うということに本来含まれる自らの「加害性」についても本曲は引き受けている。
この姿勢をもって、私たちにとっての「爆弾」にもなったのだ。
結論:なぜ『爆弾』は人生の支えになるのか
いかがだっただろうか。
夏の終わりも差し迫った昨今(二〇二六年八月二八日現在)、改めて『爆弾』を耳にしてみた読者も多かったのではないだろうか。筆者自身も、そのなかの一人だ。そのようななか動画サイトのコメント欄に目をやると、この曲について「人生の支えになった」と称する声が目立った。
魅力的なことは間違いない本曲は、しかし、なぜ、あるいはどのように「支えになったのか」という疑問が本論を書くことになった動機である。
本論では「加害性」という言葉を便宜上用いたが、恐らく「支えになった」という人にとっては、本曲が自分の有効性を思い出させてくれたのではないだろうか。簡単に言ってしまえば「やればできる」ということである。
一般に、このようなメッセージ性は、俗に応援歌と呼ばれるジャンルに属する音楽が主張するものだが、ラブソングである本曲がそのようなメッセージを含有しているのは、さすがカンザキイオリと言わざるを得ない。 世情が今のままである限り、本曲が「名曲」の玉座から降りることはないだろう。


コメント