序章:『一周回って朝』が問いかける「関係性」
この製作者の思索が好きなのかもしれない。
そんなことを思いつつ、筆者は今、この文章を書いている。
これから記述していくのはSohbanaの『一周回って朝』という曲について。
『個々々々々々人』や『恋』と同じく、本曲の歌詞も一見すると意味深長なものだと多くの読者、あるいは視聴者は思ってしまうかもしれない。けれど、筆者としては、この曲の到達点は、ある意味で必然だと考える。なぜか。そのヒントは上記二曲と同様、本曲もMVは一枚絵のみとなっている点にある。
そう。
私たちが今からやろうとしていることは、この「関連性」あるいは、前述の二曲から導き出された「必然」についての解明である。
したがって、本論は当然『一周回って朝』を題材として中心に据えるものの、その実は「Sohbana試論」になる。いや『一周回って朝』について書くためには、そうならざるをえないのだ。
だが重厚長大なものにはならないことは、ここで断っておこう。筆者が伝えたいのは、あくまで『一周回って朝』の魅力と奥深さなのだから。
第一章:感情は「私」のものなのか
まずは『一周回って朝』のテーマについて考えてみよう。
という切り出し方が出来れば文章としての強烈な出だしになるのだが、幸か不幸か、このテーマについては考えるまでもなく明白だ。
それは歌詞の中に何度も現れる「Enough to think of relation」。日本語訳にすれば「関係について考えるには十分」と言ったところだろうか。そう。この曲のテーマは「関係性」である。
「では、何についての?」と本曲の視聴者は問いたくなるだろう。当然、筆者もそうだった。事実歌詞の中には「収縮だけ待ち構えた/そんな関係性を嫌った」とあるように「何か」もしくは「誰か」との関係性を匂わせる部分がある。そして、曲の後半には「あなた」とある。
では、ここ曲はそんな「あなた」と「私」との関係性の曲なのだろうか。
いや、そうではない。そのように思う根拠として「ああ この気持ちは/あなたが由来だとは踏まえない」というフレーズがある。もし、本曲のテーマである「関係性」、その中核が「あなた」と「私」にあるものだとすれば、このフレーズは不要なものになるはずだ。
では、このフレーズの必要性とは一体何か。
実はこの曲には「関係性」というテーマを支える通奏低音がある。それは「感情」だ。いや、厳密にいえば「感情の発見」というべきものだろう。先の「必要性」という問いに答えるならば、この「感情の発見」を際立たせるために「あなたが由来だとは踏まえない」というフレーズが必要だったのだ。換言すれば、「私」が「感情」というものに驚いていることを際立たせるための必要装置だったわけだ。
しかし、このような見立ては、更なる混乱を招くことになるだろう。なぜなら、そもそも「誰か」との「関係性」の曲ではないのであれば、一体本曲は何なのか、という至極まっとうな疑問が浮かび上がるからだ。
だが、実は私たちはこの疑問についての答えを既に得ている。端的にいえば、本曲は「関係性」そのものを思案するための曲なのだ。そして、その思案のための手掛かりとして「感情」がある。
我々は一般的に、感情というものは自分のなかから湧き上がるものだと考えている。しかし、ホラー映画を見た時、あるいは具体的現実的な危機に直面したときのように、私たちの感情なるものは、外部からの刺激に対して引き起こされるものだという見方もできる。確かに我々は、怒ろうとして怒るわけではないし、悲しもうと思って悲しんでいるわけではない。
事程左様に感情なるものは、外的刺激によって誘発される。
そして、このことは言い換えれば、外部との「関係性」によって引き起こされているものだともいえる。この「関係の絶対性」からは逃れることが出来ない。
そのことを踏まえれば、この曲は冒頭部分で、この「感情」あるいは「関係」から逃げようと企図している。それが「どこか遠い場所のこと思った」という歌詞に現れている。
だが、その「思った」は同時に「思わされた」ということでもある。
そう。『一周回って朝』とは、この「思った/思わされた」が引き出された「関係性」というもの自体からの逃避行の歌なのだ。
第二章:『個々々々々々人』から『恋』へ
そのように考えることで、本曲の「必然」が明らかになっていく。
『個々々々々々人』は「個」であることの限界を示した。絶対の「正しい個」とはあり得るのか。「個であることに塞いじゃって/誰かと々くなりたくて」とあるような、そんなシニカルな歌だった。
では、完全で絶対の正しさをもつ「個」ではあり得ない私たちは、一体、何を必要とするのか。そのような問いを投げつけたのが次曲の『恋』だったと筆者は考える。
実際に歌詞の中には「何かに生かされていると思ったら/それが君でした」という部分があるのだ。
だが、この疑問、あるいは暫定で提出された「君」という答えも満足のいくものではなかったのだろう。
「個」のために「君」を必要としたとして、それは安定した足場ではないからだ。その必要性に相手が応じてくれるとは限らない。「恋」をしたことがある人であれば、わかるはずだ。相手に寄りかかることの危うさが。
『恋』という曲には、そのような危険性は表出していないが、筆者自身は、この危うさに製作者も自覚的だったのではないか、と考える。そう考える根拠は、ほかでもない。その後に『一周回って朝』という曲が存在していることだ。
だからこそ、問いは再構築されなければならない。
「「個」ではあり得ない私たちは、一体、何を必要とするのか」と問うのではなく、この「個」という感覚は、どこから湧き上がるものなのか、と。
「個」という感覚は、アプリオリなものではなく、そのように構築されたものであるとするならば、一体、何が、どのように…。
これこそが『恋』で浮上してきた問いだった。そして、その応答に『一周回って朝』が存在する。
完全無欠の「個」ではありえず、さりとて、そんな「個」に寄り添ってくれる「君」を強く望むこともできない。だとすれば、この「個」という感覚の震源こそ、私たちが見つめるべきものなのだ。
『一周回って朝』は、そんな問いの必要性によって召喚された曲である。
これまでのことについて、筆者の妄言だと言われればそのとおりかもしれない。しかし、一枚絵をMVに据えるという明確な共通点は、前述したような製作者の思索の跡を感じさせる。
繰り返しになるが、これらのことが妄想だと言われても、やはり筆者は、そのような思索の手触りがわかるようなSohbanaというクリエイターに目が離せないのだ。
結論:「個」という幻想の、その先へ
問題はここからである。
もし仮に『一周回って朝』に続く作品があるとすれば、それは一体、どのような曲になるだろう。
余計なお世話であることは重々承知しているが、筆者には次回作のイメージが全く想像できないのだ。告白してしまえば、本論自体が、その証左であるように『個々々々々々人』や『恋』、そして『一周回って朝』に至る一連の流れや問いの変遷は、言語化が容易でもあった。だが、ここから先、「個」というテーマから派生したものが、どのように展開していくのか、まったくイメージできない。
しかし、だからこそ期待してしまう自分がいる。
「個」という幻想の先に、どのような景色を見せてくれるのか。それが今から楽しみでならない。

コメント