【歌詞考察】Neru『ロストワンの号哭』怒れる「僕」と失われた敵

Neru

序章:「内面」の時代、その最初の金字塔

その曲は、誰もが認める名曲であったと思う。

『メルト』の登場とともにボーカロイドは「内面」の時代、「物語」の時代に分岐したといえる。そして前者において『ロストワンの号哭』は、その金字塔ともいえるだろう。

とはいえ、本曲が登場したのは二〇一四年であり、すでに十年以上の時が経過している。そのようななかで、我々が振り返ってまで、この曲について思案を巡らすとしたら、その目的とは何か。

本サイトでは、たびたびボーカロイドの歴史について二〇一七年を大きな区分とし、それ以降を「内面」の時代と位置付けている。

ここで読者は疑問におもうかもしれない。『ロストワンの号哭』についても、先程同じようなことを言ったではないか、と。

「内面」の時代の金字塔だったのではないか、と。

まさにそのとおり。そしてここにこそ、私たちが本曲を語る意義がある。

私たちが見ていくのは、この断絶の前後に横たわる「内面」の差異だ。この二つの「内面」を並べることによって、私たちは本曲の本当の価値を改めて知ることになるのだ。

第一章:思春期の怒りと「責任」の不在

『ロストワンの号哭』を特徴づけるとすれば、この曲が思春期の暴走ともいえる荒々しさに満ちているということは一度でも耳にした読者であればわかってくれると思う。敵は、学校や大人だった。そのなかで育った「僕」の不自由なき、正体不明の「生きづらさ」が、本曲では露わになっている。そして、それは「おいどうするんだよ」と誰かを責め立てるような声に変化する。

だが、ここで読者には注意を促したい。本曲で不在になっている概念があるからだ。それは「責任」である。改めて歌詞をなぞれば、ここでは身の回りにある様々なものを非難している。そして「おいどうすんだよ」と他者に答えを求めている。そして、このような非難は「大人」へと標的を変える。いや、「大人」という概念自体に、「僕」は「生きづらさ」の矛先を向ける。

では、二〇一七年以降の「内面」をみていこう。そのために注目すべき楽曲に翌年発表された『ロキ』を私は挙げたい。これも自身の内面の葛藤を描き、そして『ロストワンの号哭』と同様「大人」という言葉を歌詞に含んでいる。しかし、問題は、この「大人」の使われ方なのだ。

『ロキ』でも「大人になれ」というメッセージが織り込まれているが、そのための助走として「覚悟」を求める箇所が多々ある(例えば「君の全てを曝け出してみせろよ」や「キメろ Take a “Selfy”」という歌詞。匿名に隠れず、自身の顔と名を以って「大人になれ」というメッセージだ)

一方で『ロストワンの号哭』は、まだ青さがある。繰り返すようだが、『ロキ』と異なり「大人」になること自体への反逆が、この楽曲にはあるのだ。

『ロストワンの号哭』と「大人」と『ロキ』の「大人」。我々が考えたいのは、この差異というわけだ。

第二章:『ロキ』と「大人」という言葉

この差異を考えるための助走として、それぞれの曲の「僕」を取り巻く環境に注目したい。『ロストワンの号哭』は、いうに及ばないだろう。「僕」を取り巻く環境は「学校」であり、『ロキ』には「場所」がない。この「学校」の消失こそが大事である。

言うなれば、『ロストワンの号哭』は「学校」により熟成された「怒り」が「大人」への反発、あるいは、その概念への疑義を生んだ。そのように考えれば、なるほど『ロキ』が、「大人」を肯定したのも、「学校」への足掛かりを失ったためだろうか。

しかし、この変化について次のようにも考えられないだろうか。「社会」が「学校化」したのだ、と。

事実、このような変化に対して鋭い指摘がある。

組織開発専門家・勅使河原真衣『働くということ』では次のようにある。

本書では経済産業省が二〇二二年に出した「未来人材ビジョン」における「あらゆる人が時代の変化を察知し、能力やスキルを絶えず更新し続けなければ、今後加速する産業構造の転換に適応できない」というコメントを引用したうえで二〇五〇年を見据えた「必要な能力」の選定、その資料にある「将来は「問題発見力」、「的確な予測」、「革新性」が一層求められる」という点について、「能力」という虚構性を批判する。詳細は本書に譲るが、ここで言いたいことは、先の経産省の資料が、「あらゆる人」と語るよう「子ども」であろうと「大人」であろうと「能力」の向上を称揚している点である。筆者は、この点を「社会」の「学校化」と呼ぶ。そしてこのようは変化こそ『ロストワンの号哭』が敵を失うに至った背景なのだと私は思う。

言うなれば、「学校」に反抗していた『ロストワンの号哭』の「僕ら」は、その標的を見失った。「大人」とは何か、と問う前に「大人になれ」と迫ってくる「社会」が『ロキ』の眼前にはあった。『ロキ』の指す「大人」が、本論の文脈でどのような状態であることについては語らない。しかし、一つだけ言えるのだとするならば、『ロキ』が「大人」を受け入れたのは、「子ども」であることの無意味さを味わったあとの振る舞いだった可能性がある、ということだ。

結論:敵を失った内面のその後

いかがだろうか。二〇一四年と二〇一八年。この僅か四年の間で、ボカロシーンはもちろんのこと、視聴者を取り巻く環境も目まぐるしく変わった。

改めていえば、このような「時代」の一ページとなった『ロストワンの号哭』は、名曲と言って差し支えないだろう。

この変化の次には、どのような局面が訪れるのか。二〇二六年の現在、実は、この「内面」に再び切り込んだ名曲がある。ルシノ『ループザルーム』だ。詳しいことは当該記事に任せるが、一つだけ言えるとすれば、筆者の見立てでは、この「内面」の回帰はしばらく訪れない、ということだ。『ループザルーム』は、一つの限界を示した。

しかし、このような予測を超える可能性があるのが現在のボカロシーンでもある。

『ロストワンの号哭』『ロキ』『ループザルーム』。

歴史が描けるような、これら名曲の連なりの次の景色を、私も、恐らく多くの視聴者も期待している。

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