【歌詞考察】TAK『numb numb』――友情でも恋でもない、二人を結んだ感情

TAK

序章:友情でも恋愛でもない感情を探して

その感情の名前を、彼女たちは知らなかったのだろう。

TAKの『numb numb』で描かれている初音ミクと重音テトは、そんなことを視聴者に思わせる。ここに映し出されているのは、友情なのか、愛なのか。

だから本論では、そんな二項対立に決着をつけなければならない。

これはそんな試みである。

この試みが綺麗な着地点を見つけたとき、読者にとって現代の我々が抱えている一つの「問題」にも光が差し込むことだろう。

第一章:「あのこ」になれないという憧れ

本曲では異様に繰り返されているフレーズがある。「numb」という単語である。辞書的な意味では「麻痺した」という形容詞・動詞だ。言うまでもないことだが、これは歌い手の心性を表現したものに他ならない。

そのことを踏まえて改めて、本曲へ視点を移してみよう。

この曲は最初、テトの視点から始まる。明確な説明こそないものの、恐らく何かしらの踊り手であるテトは、ある日、同じレッスンに通い始めてミクを目にする。その姿にテトは視線が外せなくなる。ここに理由はない。だが視聴者である我々はいくつかの仮説を立て、検証することができる。

理由の一つとして考えられるのは、そのレッスンでのミクの身のこなし、いうなれば「踊り」の上手さに見惚れてしまったという説。スポーツを題材としたサブカルチャーでは頻繁に見受けられる関係性だ。

しかし、恐らくそれは違うだろう。理由はミクの装飾であり、注目すべきは絆創膏が張られた膝である。一方でテトのほうは、そのようなものはない。二人の状況を比較すれば、単純な「踊り」の上手さでいえば、テトのほうが勝っていると思えなくもない。少なくとも、ミクのほうが熟練度で上回っており、そんな彼女に憧憬の視線をテトが送っているとは考えにくいだろう。

ここでヒントになるのは、歌詞である。

後でも述べるが、テトのパート、つまり曲の前半において、次のような歌詞があることに注目しなければならない。

「あのこになれない運命なのかな」

重要なのは「あのこ」という、ある種の未熟さを含んだ呼称である。全編を通じて、ミクと比較し、テトのほうは笑顔である瞬間が少ない。翻ってそれは、ミクの天真爛漫さを表現している部分でもある。言うなれば、テトには「踊り」を一つの道として極めようとしているストイックさ、逆にいえば余裕のなさがある。

そんなテトにとって、ミクの無邪気さは潤いを与えることになる。だが、もちろん、テトが抱いている感情は愛情や友情とも言い難い。あえて言葉を付けるのであれば、「こういう自分もあったのかもしれない」という憧れに近いものだろう。

テトにとってミクは、同じ境遇にありながらも「踊ること」それ自体の楽しみを失わない稀有な存在として映ったはずだ。

第二章:「あなた」と呼ばれた理想像

では一方でミクにとってテトはどう映ったのか。

ここで注目したいのは、本曲の時系列である。前半は「a year prior」とし後半は「half a year prior」となっている。つまり一年前を起点に、この曲は時間が過ぎているという

構成になっているのだ。

このことに念頭に置いたうえで、例えば前半部の最後はどのようになっているだろうか。そこには、ミクの後ろ姿を見るテトが映っており、ミクが振り向こうとした瞬間にテトが視線を外し、どこかへ歩いていく姿が映し出されている。さながら、ミクを避けるように。

そして後半の冒頭。レッスン場と思わしき場所で、何かの発表を待っているようなミクとテトの姿がある。その直後、ミクは破顔し、そんな彼女の表情にテトが赤面する。さらにそのあと、二人が仲睦まじい様子で談笑する場面に切り替わる。

さて、ここで唐突ではあるが、改めて歌詞内容に目を配りたい。前章で「あのこ」となっていた箇所は、ミクのパートである後半部において「あなた」となっている。

先程のミク=未熟という等式を使えば、ミクとってのテトは成熟の象徴だったと言えるのではないだろうか。ミクにとってテトは、「踊り」に対してストイックに打ち込む憧れの存在であり、そこに追いつきたいと渇望していた人物でもあったのだ。

ここの対比については、歌詞でも仄めかされている。

例えばテトの部分では「ホワイトバランスも壊れて」となっている一方でミクについては「影」というフレーズがあるように、それぞれに白と黒という色彩のコントラストを暗喩するような部分がある。

ミクにとってテトは「楽しい」を捨てても、頑張ることの副作用としてあらわれる「暗い部分(悲しい、悔しいなど)」を背負っていてもなお歩みを止めない人物であり、テトにとってミクは、自身の暗い部分を崩してくれるような、まぶしい人物だったということになる。

そう。お互いに抱いている感情は「憧れ」。

これである。

結論:憧れは追いつくためにある

しかし、である。

仮にそうだとして、この曲には不自然な部分がある。それは冒頭とクライマックス。二人が手をとって踊りあう部分は、儚げでもありながら、二人であることを至上の喜びとするような、幸福なシーンである。

だが、ここで二人は涙する。一瞬しか映らないものの、テトは冒頭で、ミクはクライマックスで。

この涙は何を意味するのか。

言うなれば、これは二人の関係性が崩れてしまったことを暗に示しているのだと筆者は思う。ミクは弛まぬ努力によってテトに追いついた(発表の場面)。一方でテトは微笑むことを思い出し、ミクのような魅力を手に入れた。

しかし、この対等な関係が、悲劇をもたらした。二人は「ライバル」になったのだ。いや、なってしまったのだ。憧れから競争相手へ。それがこの二人を包んだ悲劇である。

だが、私は、この風景こそ「憧れ」という関係性の最も美しい終着点だと思わずにはいられない。

巷では「推し」という言葉で表現されているように、憧れという心性の言い換えのようなワードが流行っている。憧れは憧れのままでいてほしい、という願望の憧れなのだろう。

しかし、どんな人間にも間違いがあり、どんな人にも等しく時間が流れているように「推し」がそのまま永遠でいてくれることはありえない。これは狂った「憧憬」である。

私は思うのだ。「推し」あるいは「憧れ」というのは自分の歩みを止めるための免罪符ではない。

いずれ追いつく。

いずれ追い越す。

それが「推し」ないし「憧れ」の出口戦略である。

この気概を真正面から描いたのが『numb numb』という名曲なのだと私は思う。

ライター紹介

この記事を書いた人
k-sato

92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

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