【歌詞考察】傘村トータ『空に免じて』——私たちは、曇り空のような自由が欲しかった

傘村トータ

序章:私たちは、何がしたかったのか

結局、私たちは何がしたかったんだろう。

もし人類最期の日が訪れたとして、終末を迎える人々はそんなことを思うかもしれない。

私自身はといえば、傘村トータ『空に免じて』という曲を耳にしたとき、同じことを思った。

結局、私たちは何がしたかったんだろう。

なぜ、そのような感慨を抱いたかといえば、本曲が、私の目には、二〇二〇年代のボカロムーブメントが抱えてきた疲労の一つの着地点のように思えたからだ。

そんな感想を読者は不思議に思うかもしれない。歌詞内容から明らかなように、本曲の魅力は、視聴者に寄り添うような暖かなメッセージであり、「何がしたかったのか」というような逡巡とは関係が無いように聞こえるからだ。

そう。本論のテーマは、その謎解きである。

先んじてキーワードをいえば「根」と「翼」だ。これらのワードを鍵とし、『空に免じて』という名曲が結果的に映すことになった私たちの「逡巡」を、明らかにしていきたい。

第一章:「空」を目指し、「翼」をこしらえていた

まずは足元から見ていかなくてはならないだろう。この曲のメッセージを素直に受け取るところからはじめるべきだ。

一度でも視聴すればわかるように、また前章でも触れてきたように、この曲は視聴者に寄り添う作品である。

「信じるから裏切られる 期待するから傷つく」という理解があり、そして「痛みを知る者でないと 泣き声の周波数は拾えない」と口にする。その語り口は、不器用な生き方しかできない視聴者の背中を押すわけではなく、ただ隣にいるのだ。

だからこそ、というべきだろう。この曲は「生きよう」「帰ろう」と繰り返す。

「生きる意味なんて 理由なんて わからなくて当たり前だよ」というフレーズは、励ましの次に気づいてしまう心の穴をそっと埋めてくれるのだ。

だが、このアプローチでは謎を解くには至らない。重要なのは、タイトルにもある「空」の様子だ。本曲は次のように語る。

「ふと見上げた曇り空」

この様子に「僕」は「僕」を許すことができた。

しかし、このことはおよそ一般的ではないだろう。

晴れ渡る青空でもない。さりとて同じボカロ曲の『車窓』(Farewell225)が描いているような外の景色——花々や草木に慰められるわけでもない。なぜ「僕」は「曇り空」に慰められたのだろう。その答えは、私たちが強いられている「生き方」にある。そのことを把握するためには前述した「二〇二〇年代」の風景を見渡さなければならないだろう。

これはAnythingBecomeMoeのメガヒット曲『ヤラララ』の記事でも次のように書いている。

「二〇年代ボカロシーンは、苛烈な「成熟」を歌った曲が人気を博していた」

このことの証左としては例えばピノキオピー『超主人公』や吉田夜世『オーバーライド』が挙げられるだろう。詳細は当該記事に譲るが、いずれにせよ二〇二〇年代は、「成長」や「経済的自由」「自由」などのみやびやかな言葉を駆使し、私たちに苛烈な生を強いてきた。

本論の文脈に沿って比喩的にいえば、私たちは「空」を目指していた。

そして、そのための「翼」を必死にこしらえていたのだ。

だが、それは挫折することになる。雨良『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』が暴露したように、そこでは、自由や上昇のイメージそのものが、誰かの労力によって支えられている。誰かが空を見せ、誰かがそのための翼を作らされる。私たちが目指していたはずの自由は、いつの間にか別の誰かの利益や演出に回収されてしまう。いささかマルクス主義経済を彷彿とさせる構図ではあるが、ここで大事なのは、そのような図式の真偽ではなく、挫折したという部分だ。

読者諸氏はどう感じるだろうか。社会の至るところで投げかけられる、「成長」という言葉に辟易していないだろうか。

傘村トータ『空に免じて』が暗黙の前提としている疲労感や憂鬱、あるいは悲しみは、そのような生の狂騒による競争のなかで受けた傷なのだ。その証拠にこの曲は「君ならできる」という言葉を拒否している。

第二章:「根」を張る土壌の今について

そして、このような現実を前に、我々は次のような回帰を志向するのだ。それが「コミュニティ」や「居場所づくり」である。だが、残念ながらこの志向の先は既に焼け野原となっている。

一部重複することになるが先程私は「二〇年代ボカロシーンは、苛烈な「成熟」を歌った曲が人気を博していた」と書いた。実は、この代償として負ってしまったのが、コミュニティの破棄なのである。さらにいえば、様々なボカロ曲(例えばTRAP CHICK『処刑拍手』など)が題材としているように、疑似コミュニティとしてのSNSは、いまや私的裁判の温床ともなっている。

『空に免じて』も、そのような「コミュニティ」の腐敗という影響は曲中においても現れている。「言葉」による励ましが、この曲には存在しないのだ。たしかに曲自体は視聴者へ語り掛けている。しかし、曲中の「僕」は誰からも励まされることはない。

前述したような比喩を用いれば、「コミュニティ」という「根」を張ろうにも、その土壌はもはや、安心して身を預けられるものではなくなっている。

そう。

「僕」はただ「空」に励まされている。

ではなぜ「曇り空」なのか。その答えを最後にみていこう。

結論:曇り空のような自由が欲しかった

空模様は晴天ではダメなのだ。

その理由は、既に私たちは、その青空が嘘っぱちだということを知っている。

さりとて地に足付いた「根」をもつ生き方でもダメなのだ。

その土壌は、もう無邪気に根を下ろせる場所ではなくなっているからだ。

だからこそ、次のように思わずにはいられない。

結局、私たちは何がしたかったんだろう。

自由を求めれば挫折し、コミュニティや絆を求めれば、それは耕すための土地は憎悪と怨嗟の声で乾ききっている。

筆者はこう思う。わがままなことかもしれないが、それらの中間こそ、私たちが本当に欲しているものではないだろうか。

乾いてしまった土壌を潤せるような。

あるいは「自由」を感じることのできる、ある程度の「空」のような。

そんな「ほどほど」を私たちは欲しているのではないだろうか。

私たちは、そんな曇り空のような「自由」が欲しいのだと思う。

「自由」と「絆」。

そのどちらも選べる。そして、再びやり直すことができるような、そんな「自由」を。

無論、それは単なる現実否認かもしれない。

けれど、いいだろう、と思ってしまう。

荒唐無稽な空想が一瞬だけでも現実になる。そんな夢をみさせてくれる。

それこそが傘村トータ『空に免じて』なのである。

ライター紹介

この記事を書いた人
k-sato

92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

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