【歌詞考察】まらしぃ×じん×堀江晶太『新人類』——“踊ろうぜ”の先に見えた、自由の終わり

まらしぃ×じん×堀江晶太

序章:なぜ今、『新人類』を振り返るのか

この曲を、どうしてもっと早く取り上げなかったのだろう、と筆者は後悔した。

まらしぃ×じん×堀江晶太『新人類』という曲のことだ。

ボカコレ2023春企画にてTOP100の一位に輝いた本曲だが、そこから三年経過した現在、振り返ってみれば一位の理由がより鮮明に浮き上がってくる。

私たちは、その理由を二〇二〇年代前半という時代背景を踏まえ考えていきたい。そして、その先にあるのはタイトルにもある「新人類」が目指し、挫折した風景である。それらを明らかにしていく。

ではさっそくみていこう。

第一章:現実を「物語」として生きる人々

一度、この曲を正面から見据えてみよう。

視聴した人には既に明白なことだとは思うが、素朴な感慨としてはチープな「世の中」を背景にしつつも、視聴者を含む語り手の「生」を自身で鼓舞するようなアッパー系な曲だということがわかる。「外の声は/無視して」や「大脳からピースフルで/キマっちまいな」という過激な歌詞内容は、上述のことを如実に表す。

語り手は「新人類」に呼びかける。「二の舞を/踊ろうぜ/新人類」や「お盛んで/踊ろうぜ/新人類」といった具合だ。

そして、この危なっかしい「生」の疾走ともいえる曲が、二〇二三年の春、多くの視聴者に聞かれ、ボカコレで一位を獲得した。この結果を鑑みれば、もし筆者である私や、本文の読者が同年に本曲を耳にしても、かなりの確率で高評価をしたのだろう。

だが、この曲には一つ、謎めいたところがある。何を隠そう、タイトルの「新人類」というのがそれである。

実は「新人類」というのは、本曲の造語ではない。初出は一九八四年。細かいことをいえば、実際は田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』に登場するような、オシャレをし、それ自体を対人関係の潤滑剤とするような若者を指していた。つまり「どんな店で食事をし、どんなスポットで遊ぶかで、相手を選び、また近寄ってほしくない種類の相手を自動的に遠ざけるような連中」(宮台真司『制服少女たちの選択』)のことである。

繰り返しになるが、問題は、三〇年以上もまえの言葉をタイトルに選んだのか、ということだ。

このことを考えるうえで、本曲が登場した二〇二三年前後とはどういう年だったのか、振り返ってみたい。同じボーカロイドシーンを踏まえていえば、同年は吉田夜世の『オーバーライド』がリリースされ、翌年はピノキオピー『超主人公』が登場した。いずれもわかるように、危なっかしい「生」、あるいは「苛烈な生」ともいうべきものがテーマとして前面化してきた時期でもある。無論、『新人類』もそのなかの一つに数えられるだろう。

ここまで準備が揃ったところで、我々は、かつて使われていた「新人類」という言葉に一つの注釈を付け加えなければならないだろう。

この「新人類」には一つの特徴がある。それが「現実を<物語>として生きる」という傾向を持っていたということだ。「オシャレ」つまり、「消費」によって自分の生きる世界を有意味化(物語化)している。卑近な例でいえば「今の流行は××」や「クリスマス」「バレンタイン」といったイベントにまつわる言説を抵抗なく受け入れることができる人々ということになるだろうか。

では、この傾向が『新人類』ひいては、それの背景となっている「苛烈な生」とどのような関係があるのだろうか。

第二章:二〇二三年、私たちもまた「物語」を生きていた

筆者はこう思わずにはいられない。

「苛烈な生」に後押しされた「主体」も「物語」を生きていたのだ、と。

私が念頭に置いているのは、例えば「若手起業家」や「フリーランス」、あるいは「FIREを目指す若者」のことである。彼らも、一般的ではないルートを生きるという意味において「苛烈な生」を選択したことは疑いようがないだろう。だが、彼らの通奏低音としてあったのは、とある「物語」への信仰である。端的にいえば、それは、「未来への絶望」という状況からの脱出という物語である。日本の伝統的企業文化を保持している企業への不信やシンギュラリティへの恐れなどがもたらす「絶望」への反発としての「物語」だ。

本曲がそれらを直接歌っているわけではない。だが、二〇二三年前後に共有されていた「自由に生きる」「既存のルートから降りる」「外の声を無視して進む」という感覚を考えるなら、本曲の疾走感はそうした時代の空気と響き合っていたのではないか。

そして、「現実を<物語>として生きる」という点では、その物語の表出に差異はあれど『新人類』で歌われている主体も、「新人類」も同根なのである。あるいは同根だからこそ、本曲は『新人類』と名付けられたのかもしれない。

この時点で『新人類』が、時代がもたらした熱気を鋭敏に捉えていた名曲だということがよくわかると思う。歌詞自体に「物語」のようなものはない。いや、描く必要がなかったのだ。なぜなら、すでに「物語」は現実として存在しているのだから。少なくとも、そう思われていたのだから。

しかし。

しかし、である。

二〇二六年を生きる我々からすれば、ここで共有されていた「物語」が幻想だったということは想像に難くない。「若手起業家」も「フリーランス」も、それで生き残れるのは、たぐいまれな才能と豪運を有しているものだけだ。「自由」な働き方は、少なくとも「時代の先取り」ではなかった。

ボーカロイドシーンも、この「自由」の終わりに呼応している。

例えば、雨良『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』が暴露したように、そこでは、自由や上昇のイメージそのものが、誰かの労力によって支えられている。誰かが空を見せ、誰かがそのための翼を作らされる。私たちが目指していたはずの自由は、いつの間にか別の誰かの利益や演出に回収されてしまう。「自由」は利益のための演出だったのだ。

そして、これこそが『新人類』が挫折した先にみた「風景」なのである。

結論:『新人類』の先に、優しい物語はありえるか

だが筆者はここで「物語にはシニカルであれ」ということを述べたいわけではない。

人生において「物語」は必要だ。夢への推進力、野心を貫く勇気をもたらし、時には自分自身を励ましてくれる。

しかし、その副産物に注意したい、ということはここでお伝えしておきたい。

八四年に登場した「新人類」。実は同時期に、多くの人になじみのある言葉も生み出された。「オタク」という言葉が、それである。

だが当時、「オタク」は間違いなく蔑称であった。「新人類」からしてみれば、それこそ「近寄ってほしくない種類の相手を自動的に遠ざけるような連中」であっただろう。

このように「物語」は、優と劣、あるいは正と誤の分断線を暴力的に引いてしまう魔性がある。『新人類』が念頭においていた野心家たちも、自らを「最先端」とし、それ以外を「後続」と見なしていなかっただろうか。

『新人類』は、かつての私たちが信じた「新しさ」の歌だった。
けれど二〇二六年の今、その新しさは、必ずしも私たちを救わなかったことも見えている。
それでも、物語なしに人は生きられない。
だからこそ必要なのは、誰かを古いものとして切り捨てる物語ではなく、挫折した者も、遅れた者も、迷っている者も抱え込める物語なのだ。
『新人類』が目指し、そして挫折した先にある風景とは、きっとそのような優しい物語の可能性なのだと思う。

ライター紹介

この記事を書いた人
k-sato

92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

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