序章:逃げるべき「現実」とは何か
逃げるべき「現実」とは何か。
これが、本曲が問いかけているものである。
さて、本論はアボガト6『デビットビット』を取り上げるわけだが、この曲を掘り下げて到達するメッセージを冒頭に置かせてもらった。私たちはこれから本曲と格闘し、先のメッセージに至ることになる。
そして、気の早い読者は早合点し、ここで踵を返してしまうかもしれない。だが筆者として言わせてもらえば、先の「逃げるべき「現実」とは何か」という問いは、本論を読み通さなければ、その真意をつかみ損ねてしまうだろう、と思う。
ここでいう「現実」とは、複雑であり、多層的であり、そして、その構造の全体性を以って私たちに逃げるべき「現実」を問うているのだ。
ではさっそく見ていこう。
第一章:露悪という名の現実逃避
蠱惑的で露悪的な本曲は、視聴者にとって(少なくとも)前半部分は気持ちよく聴ける作品となっている。
舞台は病院。MVは、入院患者と思われる人物の一人称視点から室内の様子、そして自身の面倒を見てくれているナースと思わしきキャラクターが終始映し出されるものとなっている。
ナースは次のように語り掛ける。
「カロリー/カフェイン/脂質/糖質/好きでしょう?」
一見すると妙な状況ではある。元来、患者を「健康」にすることが仕事であるはずのナースから、そのような挑発的な台詞が吐き出されるのだから。
歌詞は終始、このような状態で進む。怠惰であることの魅力、自堕落であることの恍惚を、ナースは訴え続けるのだ。
だが、そのような挙動をするナースが「普通」であるわけがない。事実、このMVには妙なところが二か所ある。一つは、ナースの様子だ。挙動のことを指しているわけではない。ナースは時折、断面図となり、バラバラと解体され、そして元に戻る。何事もなかったかのように。もう一つは、入院患者と思われる人物だ。MV中、一瞬だけ登場する、その人物の手首には、なぜか手錠が描かれている。
悪夢のような現実離れしたナースの姿。そして手錠。これからことから、かの病院は精神病棟であるという風に思えなくもない。いや、より踏み込んでいってしまえば病院ですらなく、入院患者となっている人物の幻想ともいえるはずだ。
このように考える根拠として、製作者のコメントを拾っておこう。
「1日くらい現実逃避してもいいだろうとDAWを立ち上げて作成した曲です」。
そして歌詞中にも「悲しい現実直視できてないね」とある。
これらのことから、このMVで映し出される空間は、そのような現実から逃げた先にある場所——すなわち、精神世界ともいえるだろう。
そこに「現実」からの抑圧はない。「カロリー/カフェイン/脂質/糖質/好きでしょう?」という露悪的な歌詞が、それを表している。
実際、私たちが生きている現実は次のような台詞のオンパレードだ。
健やかであれ。
強かであれ。
賢者であれ。
そのような声に辟易している人たちは決して少なくないだろう。別のサブカルチャーに目を移しても状況は同じだ。『ヤニねこ』『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』『FX戦士くるみちゃん』。既にアニメ化もしている作品、あるいはこれからアニメ化する予定の作品群のなかに、自堕落であり、怠惰であり、一瞬の快楽のために身をやつす、本曲のような作品が人気を博している。
では、『デビットビット』も現実逃避を志向した作品であり、その「現実」とは先のような堕落を求めない、清らかさが過剰に求められる「現実」なのか、と言われれば実はそうではない。
私は冒頭で宣言したはずだ。「ここでいう「現実」とは、複雑であり、多層的であり、そして、その構造の全体性を以って私たちに逃げるべき「現実」を問うているのだ」。
ここまでのことは、本曲を耳にすれば多くの人が思いつく平凡な「考察」である。
私たちは、その一歩先を行く。ぜひついてきて欲しい。
第二章:逃げた先にも、ナースがいる
本曲の妙なところは、単に堕落を称揚しているわけではないという点だ。
「微細な負債/このくらいいいかって/見送りを/見送りつづけて」というフレーズがあるように、しっかりとした「罰」の描写があるのだ。怠惰の代償。綺麗すぎる勧善懲悪が、本曲には描かれている。
そしてこの描写は、これまでの私たちの推論を打ち砕くことになるのだ。本曲が、「健康」や「規律」を過度に求める現実からの逃避を歌ったものだとすれば、先のような描写は不要だからだ。
では、本曲はそのような自堕落の代償を歌った曲なのかといえば、これも少し違うと筆者は思う。
なぜなら、この曲では最後、患者と思わしき人物が目覚めてしまっているからだ。完璧な勧善懲悪を歌うのであれば、ここで目覚める必要はない。救いを設ける必要がない。
しかし、目覚めた。目覚める必要がないところで、だ。
筆者は、この目覚めを別の「現実」からの逃避と考える。
では別の「現実」とは何か。自堕落を良しとしていた世界か。それとも、その報いを受けてしまった状態のことか。いずれも違う。ここでいう逃げたもの――別の「現実」とは、そのような啓発や啓蒙、善き/悪しきを区分けする価値基準そのものではないだろうか。
振り返ってみれば、患者と思わしき人物は曲中で一度も、能動的に何かを選択したことはない。
「好きでしょう」あるいは「嫌いでしょう」と言われているだけに過ぎないのだ。
そう。この曲は二重の構造を成している。
一つが「啓発」からの逃避。「健康」「聡明」であることが良しとされる「現実」からの逃避である。そして、もう一つは、そのような価値基準自体からの逃避である。自堕落であることに酔って、堕落するのではない。そのような価値観をもとに過ごしているわけではない。単にそうしていることが好きで、それだけなのだ。二回目の逃避は、そのことの証明でもある。
しかし、残念ながら、その逃避は挫折する。このような「価値基準」からの逃避、あるいは拒絶も、よりメタ的にみれば、それも一つの価値基準を生んでしまう。
そう。ある価値規範から逃走したとしても、その逃走自体が別の価値規範を生む。
この拒絶は、逃走は、無限のループのなかにある。
このことに本曲は自覚的だったのだろうと筆者は思う。覚醒した先の世界に、再びナースがいるのが、その証左だ。
言うなれば本曲は、この「現実」が別の「現実」を生む皮肉が、曲全体を通じて表されているのだ。
結論:どうやら、私たちは…
現実逃避として作られた本曲の結論が「現実からは逃げられない」というようなものであることは皮肉のほかないが、だからこそ色々なことをうまくやるしかない、という苦笑交じりのメッセージも浮かび上がってくる気がするのは、筆者だけだろうか。
健やかであれ。聡明であれ。強かであれ。ただし、ほどほどに。
愚昧であれ。鈍重であれ。不器用であれ。ただし、適度に。
——などと書いてみたところで、これもまた一つの「啓発」なのだろう。
どうやら、ナースから逃げるのは思っていたより難しい。

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