【歌詞考察】内緒のピアス『ヘモグロビン』―「鈍感でまっさらな君」の正体

内緒のピアス

序章:なぜ「愛」が伝わるのか

この抽象性を保ちながら、ラブソングとして破綻のない歌詞を紡ぐセンスは唯一無二だろう。

ボカロP・内緒のピアスのことを形容するのであれば、そんな言葉になる。

そんな才能が『ヘモグロビン』という曲でも、その才覚を遺憾なく発揮していることは一度でも耳にしたことがある視聴者であれば、同意してくれると思う。

しかし、なぜ我々はそう思うのだろうか。

本論では『ヘモグロビン』を取り扱いながら、本曲の魅力に触れつつ、「抽象性」というキーワードをもって、この曲に宿る「現代性」について語っていきたい。この語りの行きつく先は、先述した「なぜ我々はそう思うのだろうか」という問いの答えである。

そして、この答えの先に本曲の最大の謎「鈍感でまっさらな君」の正体がある。

ではさっそくみていこう。

第一章:具体性を捨てたラブソング

同製作者による大ヒット曲『プロポーズ』と同様、本曲がまとう粘着質な空気。カジュアルな言葉を用いるのであれば、この曲もまた「ヤンデレ」や「メンヘラ」的なジャンルの一つとして数えられるだろう。

このように感じるのは歌詞からも察することができる。例えば「どこかの誰かとしたこともないことをしていると思ったら頭が痛いんだよ」という部分、その周辺にある「痛んだよ君のかたちで」というような、どこか自罰的な気配のする言葉。多くの視聴者は、これらのフレーズから、曲中の「僕」と「君」の関係性がただならぬものだということを直観するのだ。

曲は全体的に、先のような抽象性を維持したまま進行していく。つまり、読者が感じ取れるのはあくまで「気配」のみであり、「君」と「僕」の人となり(唯一わかることとしては「君」が「嘘つき」であることのみだ)や具体的なことは何もわからない、という状況だ。

だが、これは一種の賭けでもあると筆者は思う。

理由はシンプルだ。往々にしてラブソングやその周辺ジャンルは、どこかに「場面」を想起させるような具体的なものが示される。

例えば、あいみょんの『マリーゴールド』には「麦藁の帽子の君が揺れたマリーゴールドに似てる」というフレーズがある。麦藁の帽子というだけで、季節は「夏」であり、その様子は歌詞どおり「揺れたマリーゴールドに似てる」という形で描かれている。

この傾向は時代を遡るほど強まっているというのが筆者の見立てだ。別の例を挙げるならば、槇原敬之『もう恋なんてしない』が、この傾向の証左であろう。「2本並んだ歯ブラシも1本捨ててしまおう」という歌詞が顕著なように、曲全体は夥しいほどの「具体性」であふれている。

ただし、少なくとも近年のヒット曲には、具体的な人物像や情景を限定せず、聴き手が自身の経験を重ねられる余白を残した作品が目立つ。

その代表作がOfficial髭男dism『pretender』だといえる。この曲も、『ヘモグロビン』と同様に、一定の抽象性を保ったまま進行する。

なぜこのような傾向にあるのかといえば、大きな理由として考えうるのが、価値観の多様化だろう。「恋愛」について「男女」というペアが、その最小単位と考えられていた時代は、はるか昔の話である。文芸の世界でも、この最小単位に一石を投じる作品が注目を浴びるようになった。例えば、第34回柴田錬三郎賞受賞の朝井リョウ『正欲』も、先の「男女」のペアという「規範的」な関係に疑義を挟んだ作品となっている。一括りに「恋愛」といっても、その内実は人によって異なる。現実社会の流れはもちろん、「推し」に対するガチ恋も、一つの価値観であろう。

だが、この「抽象性」は一歩間違えれば、視聴者を置いていくことになりかねない。やもすれば、独りよがりなものになってしまうだろう。

しかし、本曲は、そのような「抽象性」を保ちながらも、「僕」と「君」のただならぬ関係性を破綻なく暗示している。

では、このように「ヤンデレ」的な雰囲気を、一定の抽象度を保ったまま進行できるというのが本曲の「現代性」なのか、と言われれば実はそうではない。

確かに、ここまで述べてきたことは本曲の「現代性」あるいは内緒のピアスという製作者の才覚、ひいては本曲の魅力を語る一助になったのかもしれない。

しかし、この曲の本当の凄さは別にある。

それは「頭が痛いんだよ」というたった一フレーズに宿っている。

第二章:「心」が物質になる時代

一般的に、強いショックや悲しい出来事に遭遇した際、自身の心情を表す言葉として用いられるのは「心」である。「心が痛い」「心が張り裂けそう」という語群が、それである。

そのような観点からみれば、本曲の「頭が痛い」というのは、異質なのだ。

私たちは、この「頭が痛い」という表現に「心」をみる。その背景にあるのが「心の物象化」ともいえる現象ではないだろうか。

例えば、「うつ病」や「適応障害」などのメンタル系の病も、投薬による脳内物質の調整により改善できる、というのは多くの人がご存じのはずだ。

また「労働」の場面においても「感情労働」という言葉があるように、「心」ないし「感情」も商品やサービスの一つとして見なされている。現代において「心」は「脳」という極めて物質的なものと見なされている。少なくとも我々は、そのような見方にすっかり慣れてしまっている。

筆者が、『ヘモグロビン』という曲を「現代的」と見なすのは、そのような理由だ。

先述したように「抽象度」という観点からみても本曲は「現代的」であるが、この点は、アニメやドラマに用いられるか否かによって振れ幅が大きい。

それよりも真に「現代性」が宿るのは、この「頭が痛い」という表現、ここである。

「心」を徹底して「物」と扱うからこそ、私たちは、そこに「心」の在り様をみる。

だからこそ、と言ってもいいのかもしれない。

本曲には最後「鈍感でまっさらな君」というフレーズがある。

これもまた、どのような意味合いにおいて「まっさら」と言っているか、曲中ではわからない。

ただ、このようには考えられないだろうか。

「心」を「心」として扱わず「物」として見てしまうのは、ある種残酷な見立てだが、一方で、そのような見方になれてしまった私たちがいる。

しかし、「君」は違う。甘い愛の言葉を臆面もなく紡ぐことができる。その言葉を「僕」いや私たちは、数多のニューロンの駆動、あるいは「心」を「物」のように操るための手段だと思ってしまう。

そんな「僕」からしてみれば「君」のことは「まっさら」に見えて仕方がないだろう。

結論:私たちの心は、今どこにあるのか

私たちの心は、今、どこにあるのだろうか。

繰り返し述べるように、現代における「心」は、ある種の商品であり、操作可能な物質である。そこにロマンはない。いずれ「熱中」や「夢中」というのも「ドーパミン中毒」などと呼ばれるのではないだろうか。

本論で取り上げた『ヘモグロビン』という曲は、そのことの嘆きのように思うのは筆者だけだろうか。「言葉だなんて道具をいますぐ消したい」というのは、「心」の操作可能性を消滅させたいという決して叶うことのない祈りのようなものなのだ。なぜか。「心」を「心」として触れるために、である。

今、「心」はどこにあるのだろうか。

そして、これから、どこに行くのだろうか。

ライター紹介

この記事を書いた人
k-sato

92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

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