【歌詞考察】黒うさP『千本桜』「好き」だけで世界を作り変えた、あの時代

黒うさP

序章:あの熱狂は、どこへ消えたのか

これは一つの提言であり、回顧でもある。

その中心となるのが、本論で取り扱う楽曲にして、ボカロ曲の金字塔、黒うさPの『千本桜』だ。

二〇一一年に発表された本曲の一体何を、今更考察するのか、と多くの読者は訝しがるかもしれない。

端的に答えよう。この記事で考察するのは『千本桜』に宿る、今は失われて久しい魅力そのものである。あのとき、あの時代、なぜ多くの人が『千本桜』に惹かれたのか。その謎を解く。そのための大きなヒントとして、私たちは『千本桜』が写した風景を再現してみたい。「『千本桜』の舞台となっているのは、どこなのか」。これが私たちが最初に抱くべき問いとなっている。

そして、この問いの果てに私たちは気づくのだ。本曲に宿っていた魅力を継承することが、どれほどの困難を伴うのか、ということに。

ただし、これは諦念ではない。

あの熱量、あの興奮、あの高揚。

それらを今一度復活させるための提言でもあるのだ。

第一章:オタクは右側に寄ってください

「右側に寄ってください。皆さんの政治思想と同じ、右側に寄ってください!」

これは二〇一二年のコミックマーケット83にて実際に行われたアナウンスである。

冗談みたいな本当の話だ。当時、オタクという存在は、政治思想としては「右側」だというふうに捉えられていた。無論、ただの偏見なのだが『千本桜』が発表された二〇一一年は、フジテレビ抗議デモが行われた年でもあった。このデモは、SNSでの呼びかけによる自然発生的なものでもあったが、すでに存在していた「ネトウヨ」という言葉もあってか、インターネット的=右翼・保守的=オタク的という歪な等符号が形成される決定打たりうるものとなってしまった。

このようなオタク的=右翼・保守的というイメージは、麻生元首相が『ローゼンメイデン』を読み、オタク層にアピールしていたことも鑑みると、筆者のイメージというわけではないことはわかってくれると思う。

これらのことを踏まえて『千本桜』を改めて観てみると、なるほど右翼・保守的=オタク的というイメージが形成されても致し方ないと思えなくはない。

大正浪漫を漂わせる様々なオブジェクト、バンカラのようにみえる学生服、さらには日章旗などが散りばめられているからだ。言うなれば、オタク的(=右翼・保守的)なスチームパンクとでもいえるような作品でもある。

しかし、この作品で展開されている世界観が、真の意味で「右翼・保守的」かといえば、なかなか断言が難しいところがあるのだ。

例えばMVの四〇秒頃。自転車で駆ける初音ミクの背景には東京タワーが映っている。

史実では、東京タワーというのは、「もやは戦後ではない」という一文が経済白書に載った一九五六年から二年後、一九五八年に完成した。言い換えれば、経済的・文化的な復興を志向した結果の象徴であり、反対からみれば、それは力による世界秩序の構築者としての挫折、対米従属を意味していた(実際、東京タワーは復興の象徴であるにも関わらず、皮肉にも、鋼材はアメリカ軍の戦車が一部使われている)。

もし『千本桜』が真の意味で「右翼・保守的」であるのなら、このような象徴はMVに組み込むことすら憚られるのではないだろうか。

『千本桜』の舞台とは大正浪漫を無限に引き延ばしたスチームパンク・ニッポンのはずではなかったのか。

第二章:『千本桜』は「都内85階タワマン住み」だった

この問題に対しては、批評家・東浩紀による「データベース消費」という概念が有効だろう。「データベース消費」とは、物語そのものよりも、キャラクターの属性や設定など、作品を構成する「要素の組み合わせ」を消費することと言われている。例えばアニメのキャラクターであれば「猫耳」「ツンデレ」「メイド服」など、あるキャラクターにそれらの要素が詰め込まれていれば受け手は満足し、物語を軽視する、あるいはそれもまた要素のパッチワークでも問題ないとする消費行動をさす。

この概念に則れば『千本桜』というのは、「すごい」と思うような要素のパッチワークだということが理解できるだろう。

無論、筆者はこのことを批判するつもりはない。むしろここで際立たせたいのは、たとえツギハギだらけでも、その曲のなかで展開されている「好き」の集積による世界観である。

この「好き」の強度について、例えば昨今は「考察」がブームである。好きなアニメ、漫画、そのなかで張り巡らされている伏線などを正確に読み解くことが「好き」の深度として変換される。

一方、二〇一〇年代のオタクたちはどうであったか。その「好き」の熱量を示すためにうってつけのネットミームといえば「そんなの公式が勝手に言ってるだけやん」である。

このミームの文脈は(一説には)ジブリ作品の『となりのトトロ』に関する「サツキとメイの死亡説」だが(「公式が勝手に言ってるだけやん」は、その死亡説を公式が否定していることに対するコメントである)、作者の意図を「正解」とする現代とは隔世の感がある。

もちろん現代においても「過激派」や「カプ厨」など、「公式が勝手に言ってるだけやん」と同程度の熱量をもった層もある(最近では例えばアニメ『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の「スレミオ」にまつわる言説など)。

とはいえ「考察」がブームになる程度には、公式発表との距離の近さが「好き」の指標になっていることは疑いようがない。

だが、『千本桜』に刻まれている世界観は、史実や象徴の背景にある物語ではなく、ただ「好き」や「すごそう」の集積により築き上げられたものなのだ。

いささか乱暴な比喩を許してもらえるなら、『千本桜』は、私たちにとっての「都内85階タワマン住み」だったのだ。

そこにあるのは、現実に即した整合性ではない。「東京都内に85階建てのマンションなんてない」と言われても知ったことではないのだ。私たちは、その世界のなかでは税理士一発合格だし、TOEICだって942点を取っている。「俺たちの頭の中にある「都内」だ、にわか」と言い返してやればいい。

そう。私たちが思い描く「すごそう」のイメージだけが、際限なく積み上げられている。だが、それでいいのだ。そもそも、想像の世界に現実の物差しを持ち込む必要がどこにあるというのだろうか。

「好き」だけで世界を作り変える。

「歴史修正主義」などが顕著なように、それ自体は問題含みなものではあるが、それでも、仮想の一つの世界を成し、支えるだけの熱量が当時の視聴者にはあったのだ。

改めて言おう。『千本桜』の舞台とは「好き」が幾重にも積み上げられたものなのだ。

結論:好きなものを、好きなように、好きなだけ

一方で、管見ながら二〇二六年一〇月現在、下半期のボーカロイドで人気を博しているのは、先のような一つの世界観ではなく、現実社会への問題提起、あるいは批評的な角度をもったものが多い印象をうける。

「ネットリンチ」「ドパガキ」「「成長」に対する冷笑」。それらに対する勧善懲悪。これらはモチーフとしてトレンドなのだろうが、その副作用としてボーカロイドというサブカルチャーのポテンシャルを矮小化していないか、と思うことがある。

好きなものを、好きなように、好きなだけ。

リスクはあれど、フィクションであればそのように振る舞っていいはずだ。

「平成一桁ジジイ」という誹りを受けようが、本当に人々を夢中にさせるのは、抱いているであろう代替不可能な「好き」への情熱だと私は信じている。『千本桜』はそんなことを思い出させてくれるのだ。

ライター紹介

この記事を書いた人
k-sato

92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

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