序章:『ミステリー』の謎
言葉にならないものを言葉にするのが人文学の営みであるのならば、言葉にならないものを、それでも理解しようとする営みを、人はなんと呼ぶのだろうか。
MIMIの『ミステリー』を聞いて、まっさきに思ったことだ。
本論は、『ミステリー』について考察していくことになるのだが、そのための大きな問いとして、この『ミステリー』というタイトルに秘めたであろう意図を探っていきたい。
そして、冒頭に述べた「言葉にならないものを、それでも理解しようとする営み」は、そんな意図を解き明かしていくための伏線になる。
では、上記の導入として、本曲に対してこんな問いを立ててみよう。
『ミステリー』という曲のなかでは、一体、どんな事件が起きているのか。
さっそく見ていこう。
第一章:事件のないミステリー
身も蓋もないことを言ってしまえば『ミステリー』という曲では、一般に想像されるであろう「事件」は起きていない。被害者もいなければ、容疑者もいない。少なくとも曲のなかで、そのような存在を見出すことはできない。
では、本曲で起きている事件とは一体、何なのか。
それは端的に「暗号」の発見であると答えなければならないだろう。
「それは突然現れたんだ/誰もわからない暗号の意味」
歌詞のなかにもあるように、この「暗号」がどのような過程で発見されたのかはわからない。「突然現れた」ものだということにしよう。
では、その中身とは一体なんなのか。実はこれも明言されていない。
だが、それを解いた先にどのようなものがあるのかは明確になっている。
「正解だけは/真実だけは/君を抱きしめてくれるから」
不遜なことを承知で言わせてもらえば、いかにもMIMIらしい、柔らかな表現である一方で、これは少し妙なのだ。
「正解」や「真実」を字義通り受け取るとするのであれば、「君を抱きしめてくれるから」という表現は、どうも噛み合っていない。換言すれば、「正解」や「真実」が、どうしてそのようなものであるのか、なぜわかっているのか。ミステリー小説の帯文などに頻出するような「残酷な真実」という言葉が、そうであるように「正解」や「真実」は、それを解き明かしたものにとって必ず優しいものであるという保証はどこにもない。にもかかわらず『ミステリー』は、そういうものだと断言しているのだ。
上記のことをうけ、「暗号」というのが一体何なのか、という問いに対し、私たちはこのような仮説を立てることができる。
「暗号」とは、つまり「言語化できないもの」なのだ、と。
第二章:名探偵になれなかった私たちへ
この『ミステリー』という曲を不思議なものだと感じたことはないだろうか。
ボカロ問わず、多くの楽曲にはテーマがあるのが一般的だ。つまり「失恋」や「青春」や「人生の応援歌」など、ジャンルとは別に設けられているであろう「その曲は一体、何を歌っているのか」という問いに対する答えにあたるものだ。
そのような前提を踏まえれば『ミステリー』は、そのような答えが見つからない。強いて言うのであれば「応援歌」といったものになるのかもしれないが、それらしい言葉は見つからない。
当然といえば、当然なのかもしれない。
『ミステリー』で描かれている「言語化できないもの」は、それを感じた当人でさえ、あるいは我々が生きる社会でさえ、評価の基準を有すること自体が珍しいのだ。他者が「応援」するに値するかどうかわからないからだ。
一方で、読者諸氏もひしと感じているとおり、私たちの社会は「言語化」という行為自体が賞賛される傾向にある。なるほど確かに、そのような世界観は、謎を解く名探偵が賞賛される「ミステリー」的な世界観に近しいものがある。「暗号」は「言語化できないもの」、「推理」は「言語化」といった具合だろう。
そして、本曲で描かれている「わたしたち」や「君」も「言語化」を試みようとしたのだろう。しかし、それはうまくいかなかった。「結局あの暗号は分からないまま大人になるの」と歌詞にあるとおりだ。
「わたしたち」も「君」も「名探偵」にはなれなかったのだ。
けれど『ミステリー』という曲は、その状態を肯定する。「等身大のこの推理たち/そのどれもが証になった」というフレーズの「証」とは、他者の言語化に安易に流されることのない、「暗号」へ向き合った勇気ある、懸命な姿の肯定を意味するのではないだろうか。
結論:「正解」の抱擁
最後に急いで付け加えなければならないことがある。本論で散々述べてきた「言語化できないもの」とは一体、何なのか。
繰り返すようだが、これもまた曲中では明らかになっていない。しかし「迷う」や「寂しさ」という単語が散見されているところから考えると、ここで対面している「言語化できないもの」は、人生における苦しみや悲哀といった類のものになると思う。
そのように考えれば、なぜ本曲が「暗号」へ向き合ったことが肯定され、さらには「君を抱きしめてくれる」という結論に至るのかがわかる。
苦しいことや悲しいことに直面した際、私たちは、それに立ち向かい、どういう形であれ自分を「納得」させることもできるが、それらを「なかったもの」としたり、忘れようとすることもできる。
どちらが正しいというわけではないが、少なくとも自分で自分を納得させる行為が愚かなわけがない。その行為の先にある「納得」や「理解」は、時には自分を奮い立たせ、時には自分を、あるいは他者を支えることにつながる。
「正解だけは/真実だけは/君を抱きしめてくれるから」という歌詞に対して、当初筆者は疑問を呈した。「これは少し妙」ではないか、と。
しかし、その「正解」や「真実」なるものが、受けた苦しみや、襲い掛かる悲しみに対して、自分なりに向き合い、折り合いをつけようとする営みのなかにあるのならば、たしかに「抱きしめてくれる」という表現は適切なのだと思わずにはいられない。
92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

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