序章: 「ぼく」はなぜ「本当の敵」になったのか
この繰り返される主題は、私たちにとって何なのだろうか。
ピノキオピーの『えねみぃ』という曲を耳にした人は、少なからずそんなことをおもったのではないだろうか。
本曲は、現在のインターネット環境(ないしは実社会)を主題にしたものである。享楽的な誹謗中傷、善悪の容易な反転とその先の未来といった具合だ。
ただし、そのようなテーマは、これまでも別の製作者、別の曲によって繰り替えされてきた。食傷気味だという読者もいるのではないだろうか。
それでもなお、本論では『えねみぃ』を取り扱う。なぜか。その意義とはなにか。
端的に言えば、仮説を提唱するためだ。その仮説とは「「承認欲求」から「所属欲求」へ」とでもいえるのかもしれない。
もっとも、このような自己満足で本論を埋め尽くす気は毛頭ない。この仮説の先にあるのは、曲中に登場する「本当の敵」としての「ぼく」が宿す真なる敵性だということはあらかじめ宣言しておこう。
第一章: 「えねみぃ」という名の悪意
ともあれ、まずは簡単なスケッチから始めなければならない。
ピノキオピー『えねみぃ』という曲は前述してきたように、昨今の世相を反映したものである。そのことが色濃く表れているのは以下の歌詞だろう。
「投げた石がクリティカルヒットして 死んでも知らんぷり」
そして、このことを「あ/ヤバい/おもしろい」と曲中の「ぼくたち」は語る。
筆者としては、本曲のもっともグロテスクなところは『えねみぃ』というタイトルのように感じる。「敵」としての迎え撃つための大義もなく、「enemy」と断定するほど意思疎通が困難な存在でもない。「えねみぃ」という言葉に、単なる「悪ふざけ」「おふざけ」という免責を匂わせるような卑怯なスタンスが垣間見えるのは私だけだろうか。
さて、このように本曲のモチーフをスケッチしてきたわけだが、ここでひとつ注目すべきことがある。先程筆者は「大義もなく」と記載したが、攻撃者たちの弁明らしきものは歌詞の中にあるのだ。
それは「順路を守ってたのに」という一節である。このことを抽象的にいえば「ルール」を守る「ぼくら」とルールを守らない「えねみぃ」というのが基本的な対立線ということが掴めてくるはずだ。
しかし、である。この対立線には二つの大きな問題がある。
一つは、その「ルール」が具体的に何なのかが歌詞のなかで明確になっていない点。そしてもう一つの大きな問題が「ルール」を守ることが目的化し、それが「正義」となっている点だ。
歴史を紐解けばわかるはずである。当時の「ルール」からの逸脱が結果的に数えきれないほどの人命を救った例は多い。
また身近な例でいえば、過失によって人命が失われた場合の損害賠償などがある。この損害賠償の算出方法は、一般に所得によって決められる。言うなれば、年収が低い(老人や子どもなど)よりも高所得者のほうが損害賠償は多くなる傾向がある。ただし、このようなことについて、失われた人命に金銭の格差をつけることが倫理的に妥当なのか、と言われれば議論の余地は大いにある。私たちは、この傾向を「正しい」と納得できるだろうか。
話を戻そう。
上記のことで筆者が指摘したいのは、「ぼくたち」を突き動かす理由が極めて薄弱だということだ。
ではなぜ、「ぼくたち」は、かのような享楽に熱中してしまうのだろうか。
そのカギとなるのが「所属欲求」である。
第二章:「承認欲求」から「所属欲求」へ
「所属欲求」というのは筆者の造語だが、曲中の「ぼくたち」は、この「所属欲求」に巣食われているのではないだろうか。
「所属」するために、ルールを堅持し、敵をみつけ団結力を高める。「ぼくたち」にとって敵はなんでもよい。「所属」を確認するための踏み絵であり、儀式なのだろう。
ともあれ、ここで一度概念的な整理をしておきたい。
重要な点として、本論でいう「所属欲求」というのは「承認欲求」から当然区別されるということだ。時代を遡れば、この「承認」というのが重要なテーマになったのはゼロ年代前半から10年代前半にかけてのことである(アクセル・ホネット『再分配か承認か?』など)。
実際、日本のサブカルチャーにおいても「セカイ系」に分類されている作品群に含有されているように、「承認」は、一対一の関係や結びつきを重視する。
しかし、「所属欲求」は一対多の結びつきに重きを置いているといえる。
恋人の存在か、世界の命運かを選択しなければならない「セカイ系」の文脈でいえば、「恋人」や「愛」を保持、あるいは「私自身」への理解を求めるのが「承認」であり、いうなれば「世界」を守ろうとするのが「所属」といった具合だ。
無論、この「所属欲求」自体は糾弾されるべきものではない。どこかに所属し安心感を得たいという欲求は自然なものだし、孤立や孤独が社会問題となっている以上、「所属欲求」を必要以上に咎めることは問題を悪化させることに他ならない。さらにいえば、どちらがマシなのかという議論でもない。
だが、それでもあえて言うならば、この『えねみぃ』という曲は、そんな「所属欲求」の最悪な出力結果と言えるだろう。そして、このような最悪について、本曲は自覚的なのだ。それが表れているのが「本当の敵」としての「ぼく」という部分である。
曲のはじめ、「ぼく」は「ぼくたち」の行動に動揺していた。
例えば「敵認定スタンプが増えちまう/正しくてナイフが尖ってしまう」という描写に対し「こわい」と吐露する箇所がそれである。
だが、こんな「ぼくたち」を「ぼく」は容認してしまう。
最初は「いやいやいや」と一歩引いていた「ぼく」も、曲の後半には、そんな戸惑いは消えてしまっている。「所属欲求」が「ぼく」に、戸惑うことを辞めさせたのだ。
そう。
ここで「敵」になっている「ぼく」というのは、『えねみぃ』という曲で書かれている他者への享楽的な攻撃を黙認、容認している「ぼく」なのである。詳細にいうのであれば、「所属欲求」に支配された「ぼく」こそ、「本当の敵」なのだ。
結論:救いのない世界、その先にあるもの
いかがだっただろうか。
弁解を許してもらえるのであれば、本論で提唱した「「承認欲求」から「所属欲求」」については、一層詳細な検証が必要であることは自覚している。いつ、なにが、どのように作用してそのような変質が発生したのか、という部分については本論では整理がされていない。それは別の仕事として然るべきタイミングで取り組みたいと思う。
そして最後にもう一つ付け加えたいことがある。
それは本曲の救いのなさだ。いや、本曲だけではない。管見の限りでは、2026年下期、現時点での傾向として退廃的な作品が好まれているように見受けられる。転じて言えば、それは、歌われている世界観に一定の傾向が表れてしまっているということである。もちろん、そのことを人は「ブーム」などと呼ぶのだが、その形容は「ではなぜ、それが「ブーム」なのか」ということに答えてはいない。
予告させてもらうのであれば、次回取り上げる曲は、この疑問へのアンサーということになるのだろう。関心がある人はぜひ楽しみにしていてほしい。
92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

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