【歌詞考察】AnythingBecomeMoe『ヤラララ』歌詞考察――置き去りにされた「友」からの呼びかけ

AnythingBecomeMoe

序章:切実な「意味」のために

とても大切な曲だ。そして、本作が多くの人に聴かれていることには重要な意義がある。

贔屓にしているボカロランキング『LocalVoid』において一位を獲得したAnythingBecomeMoe『ヤラララ』を耳にしたとき、そう直観した。

この作品は多くの視聴者にとって、もしかしたらAdo『うっせえわ』を代表とした日常の鬱屈に対する反逆を歌ったものだと思われているのかもしれない。もちろん、その系譜について慎重に考察すれば、そこには社会の変化が浮かび上がるかもしれない。

しかし、この曲を視聴するうえで大事なのは、これが「誰の」視点から歌われているか、ということだ。

本論は、その視点の解説と、その眼差しがもつ意味を歌詞内容から考察していく。構成としては、前半に本曲の眼差しについて語り、後半ではこの曲自体がもつ意義を記述していきたい。

それではさっそく始めていこう。

第一章:「なんでそんなことやってんの?」――語り手は何者か

『ヤラララ』という曲には明確な物語がある。それは大きく分けて二つのパートになる。前半では語り手の行いに対する周囲の声や、それにより語り手の立場を明確にする部分。後半部では押し寄せるゾンビを撃退するというパートだ。

さて、冒頭の予告に結びつけるため、ここでは語り手の人となりを推理していこう。

語り手は次のような言葉を投げつけられる。

「なんでソンナことやってんの?」

「そんなことしないで、勉強でもしておけば?」

「だから頭が悪いって言われるんだよ」

しかし、それに対して語り手は「つべこべうるせえな」と反発する。言うまでもないことかもしれないが、これらのことを整理すれば、語り手は、客観的にみて「無意味」なことに取り組む変人ということになるが、しかし、その取り組みに対して、語り手は「意味」や「意義」を感じている。

この取り組みが具体的に何を指すのか。映像からおおよそのことは予測できる。だがここでは敢えて歌詞内容に則ることにしたい。そのために注目すべきは「目に見えるものしかわからないんだな」という歌詞だ。抽象的にいえば、語り手の行いは「不可視なものの復権」ということになるだろうか。

では後半も見ていこう。映像では語り手は迫りくるゾンビを薙ぎ払うような場面が続いている。そして同時に次のように呼びかけることにも着目したい。

「千里眼を持つという友よ」

「遥かな旅を行く友よ」

このように本曲では「友」への呼びかけが随所に現れる。

そして、そのような語り手にゾンビと思わしき存在は次のように語り掛ける。

「こっちがあってる、こっちに行こう」

「ねえ、これ面白くない?」

「ねえ、これ馬鹿らしくない?」

と言った具合だ。彼らは力で語り手を排除しようとはしない。むしろ「こっちがあってる」と価値判断そのものを書き換えようとする。「面白い」「馬鹿らしい」といった評価基準を提示し、語り手を自らの側へ引き込もうとするのである。

これらを換言すれば「価値体系の変更への誘惑」といったところだろうか。もちろん作中において、語り手は、このような甘言に惑わされたりしない。あくまで目の前の敵を倒すことに全神経を集中させる。

ここまで語れば、語り手の人となりもわかってきただろう。語り手は、目に見えぬものの価値を信じ、どんな誘いにも屈しない、芯の強い人物である。

ではこの人物像は、本曲の意義を考えるうえでどのような意味があるのだろうか。そのためには、実は先の「友」についても考えなければならない。

第二章:「千里眼を持つ友よ」――この曲が呼びかける相手

「千里眼」を持ち、ここではないどこかへ旅立った、さながら超人のような「友」という存在。私には、この「友」の姿が近年のボーカロイドシーンが推し進めていた心性の擬人化のように思えてならない。

振り返ってみれば二〇年代ボカロシーンは、苛烈な「成熟」を歌った曲が人気を博していた。ピノキオピー『超主人公』を筆頭に吉田夜世『オーバーライド』などの曲が例として挙げられる。もちろん、このようなムーブメントの助走としてはみきとP『ロキ』やナナホシ管弦楽団『抜錨』などの存在がある。

筆者は、これらの作品群で歌われていた苛烈な「成熟」の心性が、『ヤラララ』の「友」だと考える。

特に「千里眼を持つという友よ」というフレーズの直後に「足元の石もみえぬか」という歌詞には、『超主人公』で歌われていたような、他者を慮ることを忘れてしまった人物に対して、身近な他者にもきちんと敬意を払うべきだという悲痛な主張に思えてならない。

このことは単なる筆者の深読みに過ぎないだろうか。それならば、いくつか論拠を挙げてみよう。

先に例としてあげた作品において、つまり苛烈な「成熟」を志向した人々にとって、その終着点は破滅や狂気であった。「限界まで足掻いた人生は想像よりも狂っているらしい」とは『オーバーライド』の歌詞である。

そして、このような終着点については、『ヤラララ』との符号があるのだ。それが「セイレーンの声に惑わされたか」という部分だ。「セイレーン」とは、ギリシア神話に登場する海の怪物のことだが、海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる存在だ。

そう。

セイレーンの声に導かれたものは、破滅するのだ。

そして、もう一つ。『超主人公』はもちろんのこと『オーバーライド』でも描写されているのは、身近な人との離別である。「それで話はおしまい? ならばもう来ないからね」という『オーバーライド』の一節は、そのことを示唆している。もちろんこれだけではない。先程「助走」として位置付けた『ロキ』『抜錨』も同じような描写がある。苛烈な「成熟」は、しばしば身近な人との離別を伴う。

そうであるならば、この曲の悲痛さが露わになってくる。

つまりこの曲は『超主人公』『オーバーライド』『抜錨』『ロキ』その他多くの苛烈な「成熟」を歌った作品、あるいはそのための下地を準備した作品に登場していた、別離した「他者」からの声なのである。

結論:遠くを見すぎた私たちへ

私たちは、そろそろ頭を冷やさなければならないのかもしれない。

先述したことは、私たちが生きている現実社会のパラフレーズに過ぎないからだ。例えば苛烈な「成熟」というのは、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で描写されるような「ノイズ」ない世界で生きる、ビジネスエリートやその予備軍に求められることと同じである。千里眼はSNSであるとするなら、「ねえ、これ面白くない?」というような呼びかけはさながら日々レコメンドされるショート動画といったところだろうか。

だからこそ、私は、冒頭で示したとおりこの曲が多くの人に聴かれていることに意義を感じた。

私たちは呼びかけられている。

セイレーンの歌声ではなく、どこかで別れを告げた「友」から。

私たちは耳を澄ますべきだ。

「他者」を「他者」と思わず、その生に寸毫の敬意も払わないで突き進んだ社会は、どのような結末を迎えるのだろうか。誰が、誰を「無敵の人」にしているのだろうか。

私たちは、そんな想像すらできないほど、愚かではないはずだ。

ライター紹介

この記事を書いた人
k-sato

92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

k-satoをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました