序章:傲慢な挨拶
傲慢であることを承知で言わせてもらえば、この曲を本当の意味で理解するのは相当に難しいのではないかと思う。それほどまでに、この曲——電ǂ鯨の『童話になったらいいのに』は凡百の理解を拒絶する。なぜか。それは本曲が「反時代的」ともいうべき特徴を兼ね備えているからだ。
本論の目的は、こうして決定した。それは『童話になったらいいのに』の理解である。
したがって、本記事の構造は以下のようになるのだ。
まず本曲の特徴から「反時代的」というべき鍵を探し出す。そして次に「時代」の雰囲気を描写し、最後に比較し、この曲の本当の意味を暴く。
前置きは充分だろう。さっそくみていこう。
第一章:優しさを求める時代、優しくなれない怪獣
まずこの曲の最大の謎ともいうべき点を設定する。それは曲中に登場する「二人」とは何者か、ということだ。少なくとも歌詞の中には、仮に片方を曲の語り手だとしても、もう一人の正体は明記されていない。この「もう一人」をめぐって、インターネット上では様々な議論や指摘がされていることは、一度でも本曲を耳にし、コメント欄を覗いたことがある人であれば同じような認識でいてくれるだろう。
そのなかの一つに「語り手」の幻想こそが、「もう一人」の正体だという説がある。この正体の根拠については、MV上での「語り手」が、まるで幻覚をみているように想像上の怪獣を現実に見出したり、あるいは歌詞のなかにある「ビタミンも足りなかったんだろうね」というフレーズから、ビタミン不足が幻覚を生み出すという説を論拠にしているものなどがある。
正直なことを言ってしまえば、本論もこの説に同意するところではある。
しかし、問題とすべきはそこではない。もう一人の正体が「幻覚」であろうと実は大したことではないのだ。真の問題とは、この「もう一人」あるいは「幻覚」が、「語り手」にとってどのような存在なのか、という点にある。
この存在の具現化した姿は、MV上にある怪獣、あるいは恐竜であることは間違いないだろう。だが、この怪獣が象徴するところは何なのか。
私は、この怪獣、あるいは恐竜の正体を語り手の「暴力」という風にみる。そして「語り手」は、この内なる「暴力」を諫めるために「ダイナソール」という薬を飲んでいる。その描写も明確に存在する。「語り手」が「ダイナソール」を飲んだ後、想像上の怪獣は涙を流し、天空へと導かれる。天使の輪や羽がついていることから、この怪獣は消滅したものとみていいだろう。
一方で読者は次のように思うかもしれない。「怪獣」が「暴力」の象徴というのは安直すぎるのではないか、と。
なるほど。そのとおりかもしれない。
しかし、である。この曲は一切の「優しさ」を拒否していることにも注目しなければならない。歌詞のなかに「やさしいのはいらないよ」と明確にあるように、あるいは「やさしいひとになれないまま」とあるように、この曲は「優しさ」に対してある種の拒否反応を示している。「語り手」は、あるいは「怪獣」は優しくなれないのだ。優しくなれない「語り手」から抽出された「暴力」。怪獣は、暴力そのものではない。暴力へと姿を変えざるを得なかった、語り手の苦しみである。
第二章:童話にならない苦しみは、どこへ行くのか
私が、本曲を「反時代的」と感じた理由、それゆえに理解が難しいと感じた理由がここにある。哲学者のミシェル・フーコーの概念「生-権力」を引用するまでもなく、現代は、どのような形の「暴力」も忌避される時代だ。安全で、快適で、危害を加える存在というのが最初からいないような雰囲気が現代では蔓延している。
格闘技は、かつてのように地上波テレビの中心へ置かれなくなった。怒りや不機嫌が表に出れば、その感情が生まれた事情より先に、周囲へ与えた不快感が問題にされる。社会へ訴えても「言い方がよくない」(トーンポリシング)として、内容が吟味される前に封殺される。
なぜ、そのようにせざるを得なかったのか。そんな話者の背景など関係なしに、とにかく「暴力的だからよくない」というのが、時代の空気となっている。「暴力」はどのような形でも決して肯定されることはない。
だから「暴力」に訴えざるを得なかった存在というのは、無価値なものとして、未熟なものとして、その意義すら封印され、黙殺される。
私はこのような現代の流れに対して、『童話になったらいいのに』というタイトルがもつ皮肉さを感じるのだ。童話というのは往々にして、教育的な意義が内包されている。ゆえに、童話にすらならないというのは、やはり無価値なものとして焼却されることを暗に示しているのだ。では曲中で何が「無意味」「無価値」として焼却されようとしているのか。それが「怪獣」なのである。
だが、そのように焼却された「怪獣」に語り手は涙を流す。
なぜか。一人で背負うには重すぎた事情や、わだかまりを「未熟」とせず、大切な自分の一部だと思わせてくれたのが「怪獣」だからだ。
せめて、この苦しみに意味があったことにしてほしい。
せめて、怪獣が存在したことまで無価値にしないでほしい。
だからこそ、曲は次のように語る。「苦しんでもいいよ」と。
「暴力」を生み出すほどの事情、背負いすぎた傷は、決して「なかったこと」になどできない。できるわけがない。
でも、そのことを訴えることは、社会から禁止されている。
未熟だとされる。誰かにではなく、自分の中で消化しなければ「未熟さ」の証明になってしまう。そうであるならば「なかったこと」にするのが、正解なのだろうか。
そうではないだろう。そんなことできないのだ。
だからこそ「苦しんでもいいよ」というたった一言の投げかけが、そんな「なかったこと」にはできない私たちを救うのだ。
結論:怪獣を消しても、怪獣だった時間は消えない
無論、本論は「暴力」を無限に肯定するものではない。「暴力」に制限をかけることで助かる存在が多くいることも充分承知している。
けれども、それはそれとして「暴力」について、それも人間の、いや生物の一つの大切な側面だということは認めておくべきではないだろうか、と思う。
最も、この「暴力」との関係は非常に取り扱いが難しい。暴力の背景を理解することと、暴力によって生じた結果に責任を負わせることは、本来、両立しなければならない。だが私たちは、どちらか一方を選ぶよう迫られがちだ。背景を語れば擁護とされ、責任を問えば事情を切り捨てることになる。だからこそ、この問題に答えを急ぐべきではない。
童話にならない、いや、させないほどの強すぎる制限は、それもまた歪を生むのだろう。『童話になったらいいのに』は、そんな歪みの表れではないかと思わずにはいられない。
怪獣は、消えなければならなかった。誰かを傷つけるかもしれない力を、そのまま飼い続けることはできなかったからだ。
けれども、消えた怪獣を最初からいなかったことにしてはならない。語り手が泣いたのは、怪獣が悪ではなかったからではない。怪獣になるほかなかった時間まで、薬とともに消えてしまったからだ。
せめて童話になったらいいのに。
その言葉は、暴力を肯定する願いではない。暴力へ姿を変えるしかなかった苦しみに、物語のなかの居場所を与えてほしいという願いなのだ。

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