序章:愚かさの記録としての『トリノコシティ』
羅針盤として機能していた欲望は、私たちをとんでもないところまで連れてきてしまった。二〇一〇年に世に放たれた40mP『トリノコシティ』を耳にして、そんなことを思う。
いや、実は当時の私たち自身、自分が何を本当に欲望していたのかわかっていなかったのかもしれない。本曲は、そのことへの最後通牒だったように思えてならないのは、筆者だけだろうか。
本論では前述した40mP『トリノコシティ』を扱う。しかし十年以上も前の曲の、一体何を論じることがあろうか。読者はそんなことを思うかもしれない。
端的に答えよう。私が論じるのは、この曲に滲む「危機感」である。
では、その必要性とは何だろうか。これも端的に答えよう。私たちにとっての羅針盤を取り戻すためである。私たちが、本当に欲望していたものを振り返るためである。
笑いたければ、笑えばいい。
この記事でわかることは、私たちの「愚かさ」でもあるのだから。
では、そんな愚行録をみていこう。
第一章:0と1の幻影
非常に内省的な曲である。
一度でもこの曲を耳にしたことがある人は、そんな評価を違和感なく受け入れることができると思う。「どうして生きているの」や「閉塞感」、「傍にいてほしくて」という歌詞は、思春期の真っただ中にいる少年少女にとっては、自分の心に言葉をくれるものだろう。
思春期にある子どもたちは、内省的な傾向を有している。これは決して筆者の偏見ではない。時代をさかのぼれば、例えば、若者のカリスマ・尾崎豊が『15の夜』で「自分が何なのかさえ分からず震えている」と歌ったように、感受性の鋭い人でなくても、そんなことを思う時期があるものだ。
MVに映る少女然り、全体として自他に対し「何者なのか」と問うているような、この曲が想定している視聴者は、そのような人たちであることは疑いようがない。
そんな曲について「内省的な曲」と評するのは、大過ないと言っていいだろう。
しかし一方で、この曲にはもう一つ大きな特徴がある。それは世界観、あるいはその下地になっているであろう技術のことだ。
「0と1が交差する地点」「10文字以内」というような文字制限、「昼と夜が交差する地点」。これらの特徴が指し示すのは、インターネット、あるいは、そのなかにあるプラットフォームのことである。
特に「昼と夜」や「過去と未来」といったような非同期的ともいえる情景は、なるほど、かつて『ニコニコ動画』であったような「こんばんは、こんにちは、おはようございます」という挨拶、そして「くるぞ…」といった動画の展開を先読みしたコメントの存在を彷彿とさせる。
では、この曲は、そんなインターネットが一般化した時代における思春期を歌った曲なのかと言われればそうではない。そんな短絡をしてはいけない。
思い出してほしい。筆者は、この記事を「愚行録」とした。
これから、その愚かさをみていくのだ。
第二章:接続の果てに取り残されたもの
注目すべきは、本曲が発表された二〇一〇年であることだ。インターネットにとって二〇一〇年とは何か。
同年はインターネットの力が、それによる「変える力」というものが今よりずっと信じられていた。翌年に発生した東日本大震災ではデマの拡散もあったが、SNSが情報収集や安否確認、情報発信の重要な手段として注目された。
一方で二〇一〇年末にチュニジアで始まった抗議運動は、翌年、エジプト革命を含む「アラブの春」へと広がっていった。そこでは、SNSの活用が抗議運動への呼びかけに役立ったという議論もある。このような流れを受け、二〇一二年にはジャーナリストの津田大介は『動員の革命』という本を出版している。
程度の差はあれ、インターネット、そのなかにあるSNSによる「社会を変える力」というのが素朴に信じられていた。
また、このようなインターネットへの楽観は、『トリノコシティ』の翌年に発表された『Tell Your World』にも色濃く反映されている。
「つながれば」、「一つになれば」、それらを可能にする「インターネット」は、世の中をポジティブな方向へと変える力になる。そんなことを多くの人が信じていたのではないだろうか。インターネット空間の非同期性など、些末な問題に過ぎなかった。
しかし、振り返ってみれば『Tell Your World』で展開された極彩色の未来は到来せず、『トリノコシティ』に描かれた孤独のほうが顕在化していった。
自身の名前、自身の生きる意味。
それすら「10文字」「100文字」と制限される強大すぎるプラットフォームの台頭。
超高速で展開される濁流のような情報は人々から「バランス」を失わせた。
「間違いだらけのコミュニケーション」は不要で不毛な争いの火薬庫として機能してしまった。
いずれも『トリノコシティ』で描かれたインターネット空間の負の側面である。
二〇一〇年の時点で描かれているということは、わかっていた、ということだ。
わかっていたけど、問題にしなかった。
「危機」は描かれていた。けれど知らないフリをした。
楽観が、私たちを愚かにさせた。
私たちは、接続されることを、誰かと共にいることだと思い込んでいた。
『トリノコシティ』は、もはやティーンエイジャーの心情を歌った曲ではない。今や本作は、私たちの愚かさを突きつけてくる曲と化したのだ。
結論:それでも「傍にいてほしくて」
「傍にいてほしくて」というフレーズによって本曲は締めくくられる。
これまで論じてきたことを踏まえるならば、この一文はあまりにも重く、私たちに響くはずだ。
何百、何千文字と書いても、書き尽くせない「他者」という存在を、本曲の「ワタシ」は望んだ。
少なくとも、筆者はこの願いを「愚か」だとは思わない。真剣で切実な祈りだったと思う。
ファスト教養などという言葉があるように、現代は、人を「分かった気にさせる」ための仕組みが多く存在する。
そしてプラットフォームが文字数によって人間を切り縮めた先には、他者を短時間で理解し、評価し、分類できるという錯覚がある。けれど『トリノコシティ』は、きっと今でも、そんな風潮に抗するのだろう。『トリノコシティ』が掴もうとしたのは、そのようなことを許さない「他者」の存在だったのではないか、と今では思う。
「わからなさに留まること」。
「安直な答えに飛びつかないこと」。
そして「「新しいこと」が生む楽観に耽溺しないこと。
「他者」を望んだ本曲から得られる教訓は、そういうことなのだと思わずにはいられない。

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