序章:恋する少女と、ひとつの儀式
これは「物語」か。
それとも「予言」か。
いずれにせよ、これほどまでの悲喜劇を筆者は知らない。
うちのボカロは様子がおかしいによる『アクマバライ』という作品が、それである。
本作は一見すると、極めて単純な話のように思える。恋をした女の子が好きな人を射止めるために、アクマバライの儀式を行う。なんのために。好きな人には、別の好きな人がいるためだ。少女にとって「別の好きな人」は目障りだった。儀式は、その問題を解消するため、意中の人を自分に振り向かせるための行為だった。
以上、終了。それだけの話である。
だが我々が踏み込もうとしているのは、その話の深層だ。本曲の「予言」あるいは、悲喜劇の側面だ。先んじていえば、その深層にあるのは、巨大な絶望である。
どういうことか。それをこれからみていこう。
第一章:「儀式」が担っていたもの
本曲の概略は上述したとおりだ。本節においても特に付け加えることはない。
一方で、この曲の注目すべき点についてみていこう。それはなにをおいてもまず、上述した「儀式」に関する知恵がLLMによって授けられたという点だ。「ねえGemini、好きな人に女の影が見えるの。どうすればいい?」というフレーズは『アクマバライ』の冒頭にある。
だがここで「なるほど。これはある意味、AIが人間を操っているともいえる」などというつたない結論に筆者は至りたいわけではない。問題となるのは「儀式」と「文脈」である。
ここでいう「儀式」について、視聴者の多くは「おまじない」のようなものだと思うに違いない。新新宗教(一九八〇年代のカルトブームの渦中で登場した宗教のカテゴリー)のように、その背景に巨大な世界観があるわけではない。強固な価値体系があるわけでもない。日常の「こうあったらいいな」をかなえてくれそうな「おまじない」。それが本曲に登場する「儀式」である。
ところで、この「おまじない」について、読者の多くはご存じだろうか。今から四十年ほど前に、この「おまじない」のブームがあったことを。ミサンガは若者の多くが身に着け、雑誌『MY BIRTHDAY』では数多の「おまじない」が紹介された。現代ではほとんどみない光景ではないだろうか。
この「おまじない」の機能について、社会学者・宮台真司は次のように語る。「現代的な宗教は、「個人にとって」の「個別的な出来事」が構成する前提を欠いた偶発性を、無害なものとして受け入れ可能にする」。
わかりやすくいえば、この機能というのは、個人が直面する理不尽な出来事について、それを当人が受け入れ可能にするための理論を提供することを指す。
本曲になぞれば、好きな相手が自分に振り向いてくれないという「理不尽」を解消するために「おまじない」としての「儀式」が要請されたわけだ。
ここまで説明して、読者はこう思うかもしれない。「そのようなことをなぜ取り立てて注目するのか」と。理不尽や不条理を前の神頼みなど、一般的な行動様式ではないか。
勢い余って納得しそうな指摘だが、問題はそう簡単ではない。特にLLMによって「儀式」が推奨されたという点は、これまで述べてきたことを「一般的」として済ましてはいけない「絶望」が潜んでいるのだ。
第二章:変わらない自己、変わらない世界
「理不尽」への処方箋は、当然「おまじない」だけではない。他には大きく二つある。一つが「自分には魅力がなかったのだ」という現実を受け入れ、それを乗り越えるために奮起する方法。自己啓発的な発想である。そしてもう一つは一般化。つまり「「異性」は全員自分の魅力に気づいていない矮小な存在である」というふうに、いうなれば「世界観」を構築してしまう方法。
前者であればYoutuber・ジョージの「男磨きハウス」が代表例であり、後者であれば「インセル」と言われている属性集団が挙げられるだろう。
問題なのは、このように「理不尽」への処方箋は他にあるにも関わらず、LLMが「儀式」を紹介してきたという点にある。
繰り返しになるが、このような他の処方箋ではなく「アクマバライ」を紹介したことから、一つの仮説が浮かび上がる。それはLLMが作中の語り手の文脈を保持していたのではないか、ということだ。つまりLLMは語り手のことをわかったうえで「儀式」を紹介した。
ここに「巨大な絶望」が映ってみえるのは筆者だけだろうか。
語り手はいつの間にか捨てていたのだ。自分が変化することを。そして気づいてしまったのだ。世界は変わらず自分を真綿で首を絞め続けること。そのなかの唯一の解法として「儀式」が登場する。
アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』に代表されるように、過度なスマホの使用、特にSNSへのコミットは利用者の自己肯定感を著しく損なうという。当然だと思う。自分の上位互換のような存在が、星の数ほどいるのだから。
また最近では「人生のネタバレ」や「ミドルエイジクライシス」という言葉が人口に膾炙するようになった。世界は、自分の人生は、もう変わらないという薄い、しかし拭いきれない絶望を人々が感じていることの表れとも読める。
いずれも本論の文脈で言えば、自己研鑽という道も、世界を書き換える力も、人は諦め、閉ざし、濃淡の差はあれど絶望しているということになるのではないだろうか。
そう。本曲の「語り手」は、我々とは違った変わった女の子というわけではない。
いうなれば、私たちが抱えているものの擬人化というべきではないだろうか。
結論:魔術が再び必要になる日
私が本論の冒頭で『アクマバライ』を「予言」とした理由はここにある。
管見の限りでは、「おまじない」のようなブームが現代において発生しているとはいえない。しかし、その土壌はすでに出来上がっている。
博報堂生活総合研究所の「生活定点2024」のデータにおいて20代は「宗教を信じる」という問いに対して全体より9.3ポイント低い一方で「占い・おみくじを信じる」という問いは全体より7.2ポイント高くなっている。これらのことから若者は「宗教」からはかなり離れているが、「占い」のようなライトな超自然的世界観にはむしろ親和的といえるだろう。
実際、読者はどうだろうか。パワースポット、聖地巡りなどしていないだろうか。もしそうであるならば『アクマバライ』を試す機会は、もう目の前に迫っているのかもしれない。そう。『アクマバライ』が予言しているのは宗教の復活ではない。巨大な物語を失い、自己変革にも疲れた人間が、LLMによって個人化された「おまじない」へ向かう未来である。

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