序章:なにが、少女を殺したのか
なぜその少女は死んでしまったのか。
『展示中毒』の歌詞考察は、そんな問いから始まる。
しかし、本曲を一度でも耳にしたことがある人であれば、この謎は単純すぎるかもしれない。その謎を解く鍵は、あまりにも明瞭な形で曲中に示されているからである。
だから私たちが抱いている謎は次のように精査されるべきだろう。
なにが、少女を殺したのか、と。彼女の本当の死因とはなんだったのか。
そこには現実社会と「承認」の毒々しい関係が宿っている。どういうことか。さっそくみていこう。
第一章:「承認」から「肯定」へ
まずは『展示中毒』のアウトラインからみていきたい。ここでは前述した「その謎を解く鍵」を簡単に示していこうと思う。
本曲は、冴えない少女の登場から始まる。彼女は自身について次のような感慨を抱いている。「代わり映えのしない日常」「モノトーンの虚しい人生」。
そんな少女は、配信活動をやってみようと決意する。きっかけらしいきっかけはない。ただ「なんとなく」である。
結果、彼女はインターネットの世界でのスーパースターとなった。有名人となった。
少女は更なる承認を求める。もっと多くの人に自分を見てもらいたい、と熱望する。タイトルのとおり「展示中毒」となってしまったのだ。
その結果として、心身の調子を崩すことになる。しかし、それでも配信を辞められない。
最終的には、現実世界の少女は(おそらく)命を落とす。現実世界の生活を犠牲にし過ぎた結果である。
以上が『展示中毒』の概況だ。なぜ少女は死んでしまったのか、というのは謎でもなんでもないと読者は思うだろう。強いて言うのであれば少女の死因は「配信中毒」。これである。
さて、ここまではいい。オーケーだ。
だが本曲には妙な「ねじれ」があることに、どの程度の人が気づけただろうか。
曲中に繰り返し登場してくる「承認欲求」という言葉。これが妙なのである。
思い返してほしい。そもそも少女は自身の人生を「代わり映えのしない日常」「モノトーンの虚しい人生」としていたのだ。「承認」というからには、そのような日常や人生への承認を求めるものではないのだろうか。
しかし少女は次のように考えている。
「殺した僕の一部をみて」と。つまり、配信上で披露しているのは「ありのまま」の自分などでは決してない。自らを切り離し、装飾した、自分とは異なる別の「何か」を展示していた。
自分と切り離したものを展示し、それが承認されたとして、自らが満たされることは決してない。なぜなら、観客たちの承認はあくまで「展示物」に向くのであり、配信者である生身の彼女には向かないのだ。「承認」を求めても、「殺した僕の一部」を展示している限り、本来肯定してほしかった自分自身は、依然として取り残されている。
これらのことから、筆者は次のように思う。
少女が求めていたのは「承認」ではなく「肯定」なのではないか、と。
第二章:「好きなことで、生きていく」の果てに
そのように考えれば、彼女がなぜ配信活動に注力していたのか、ということにも「承認」以外の別の道筋が開ける。
「何かのために頑張る」。
「何かのために努力する」。
このことが、彼女が今の自分を支えるために必要なことだったのだ。「代わり映えのしない日常」「モノトーンの虚しい人生」はすべて伏線だった。そう思えることが、少女には必要だったのではないだろうか。
しかし、少女はそのことを自覚することなしに、命を燃やし尽くしてしまう。
ここまで記載することで、私たちは冒頭の謎に再び立ち戻ることができる。
改めて問おう。
問うべきである。
「なにが、少女を殺したのか」と。
ここで読者にも問いたいことがある。
「代わり映えのしない日常」「モノトーンの虚しい人生」というのは、そこまで否定されるべきものなのだろうか。もちろん、多くの人は「そんなことはない」と答えてくれるだろう。では、「そんなことはない」と思っているにも関わらず、本曲の少女のように、否定してしまうのはなぜか。
何がそのように思わせるのか。
こちらについても大人たちは「インターネットのせい」と言うかもしれない。たしかに、その可能性は否定できない。アプリを開けば、自分の上位互換のような存在が星の数ほど出てくる。
しかし、それだけではない。
時代は「代わり映えのしない日常」や「モノトーンの虚しい人生」という「ありのまま」を認めない。
例えば二〇二二年には経済産業省が次のような発表を「未来人材ビジョン」という提言書で行っている。
「あらゆる人が時代の変化を察知し、能力やスキルを絶えず更新し続けなければ、今後加速する産業構造の転換に適応できない」「こうした変化に対処するため、産業界と教育機関が一体となって、今後必要とされる能力等を備えた人材を育成することが求められている」。
「能力」を更新し続け、「活躍」し続けよ。「社会」のために。「経済」のために。
そうであらねばならない。
そして、さらにいえば、この「活躍」というのも、他者の期待に応えるという意味であるとするならば、なるほど、『展示中毒』の少女は確かに「活躍」したのだ。
配信者として、視聴者の期待に応えたのだから。
「好きなことで、生きていく」の結果、「好きなことで、死んでいった」のだ。
そう。言うなれば、少女は「展示中毒」により「過労死」した。
彼女を殺したのは、「経済」であり、「社会」であり、「労働」なのである。
結論:誰がための「活躍」
もう一度言おう。
少女の死因は「過労死」である。
筆者である私自身、本曲には当初、そこまで特別な意味や意義を見出すことはできなかった。一人の平凡な少女が「承認」を求めた挙句、命を落とした。そんな、悲しくも凡庸な物語だというふうに捉えていた。
だが、どうだろうか。
彼女の死因を「過労死」とした場合、この曲で描かれているものは、特別なものではなかったことに気づくだろう。
二〇二六年の現在でも、労働時間をめぐる議論は再び紛糾の兆しをみせている。
無論、労働時間規制の単純な緩和は多くの人が許さないだろう。しかし、先の経済産業省のように、労働を「強制」するのではなく「自発」ないし主体性の発揮の機会である、という価値観のなかで、私たちはどれほど、「緩和」に抗することができるのだろうか。
「人それぞれだから大丈夫」「長く働きたい人は働けばいい」。
そう思うだろう。もちろん、間違っていない。
しかし、もし、大切な人が「展示中毒」になってしまった場合はどうだろう。「
人それぞれ」で看過するのだろうか。恐ろしいことが起きても、「その人が望んだことだから」と、その死を個人の選択の結果として受け入れ、何に対して怒るべきなのかもわからぬまま、喪に服すのだろうか。
92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

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