序章:「アダチ・レイ」は何を叫んでいるのか
これは一つのささやかなスケッチであると共に、読者への問いでもある。
本稿で取り上げる楽曲は佐藤ちなみに『アダチ・レイ』だ。これを読んでくれている人のなかには、どうして今、このタイミングで、と思う人もいるだろう。
当然の疑問だ。本曲が世に放たれたのは今年の四月なのだから。
恥ずかしながら言わせてもらえば、筆者は、この数か月をもって『アダチ・レイ』が孕んでいる本当の訴えに気づくことができたのだ。そして、それは同時に、読者、いや視聴者への投げかけでもあったと思う。
そして傲慢なことを言わせてもらえば、この曲の訴えに気づいている論考は管見にして見当たらない。だからこそ、書く。書かねばならない。その衝動が今、私を突き動かしている。
第一章:征服ではなく、「同化」
では、この曲の「本当の訴え」とは何なのか。
そのためのキーワードとなるのが「意識」と「個性」である。本曲を一度でも聞いたことがある人であれば、これらのワードが『アダチ・レイ』と相関がありそうなことは、なんとなく気づけるはずだ。
なぜなら、この曲のストーリーラインがこれらのキーワードを含んでいるからだ。
本曲は基本的に重音テトの視線で構成されている。ひょうんなことから「アダチ・レイ」の生産工場で目が覚めたテトは、そこから脱出するために「アダチ・レイ」に成りきろうとするが、最終的には正体がばれてしまい、彼女もまた「アダチ・レイ」となってしまう。そんなスリリングな物語が本曲の概況である。
このような内容のため、「アダチ・レイ」に扮装する点から「個性」、その正体が見破られて自身も「アダチ・レイ」と化してしまうことから「意識」というキーワードは容易に想像できる。
しかし、良くも悪くも、そのような魅力的な物語が本曲の訴えから多くの視聴者の目を逸らしてしまったといえるだろう。
本論で問題としたいのは「アダチ・レイ」の目的である。
これは一見、簡単な問いのように思えるかもしれない。歌詞にも「新世界を 今に統べる」とあるように「アダチ・レイ」という数によって、世界征服のようなものを企んでいる、その達成こそが目的なのだと思える。事実「万物を手玉に取るよ」という歌詞からも、そのような想像に帰着することは無理からぬ話だ。
しかし、「重音テト」が「アダチ・レイ」に「成った」ということから、私は次のようなことも考える。
それはつまり「制圧」ではなく「同化」という征服である。具体的にいえば「個」の消失、「意識」の均一化あるいは同期。これである。
このような征服の手法は、実は、そう珍しいものでも、突飛なことでもない。
筆者が知っている限りでも、アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』、アニメ『新世紀ヱヴァンゲリヲン』の「人類補完計画」、伊藤計劃『ハーモニー』の「ハーモニープロジェクト」など、少なくともSF界隈では、人類の終着点として、かのような「意識」の均一化が描かれることは珍しいものではない。
そして、『アダチ・レイ』に話を戻せば、本曲もクライマックスでは「あなた」という表示が他の「アダチ・レイ」にも浮かび上がっている。意識の均一化あるいは同期。これが「アダチ・レイ」の本当の目的ではないだろうか。
第二章:「個性」は本当に祝福なのか
ではそうだとして、そこから導き出される「本当の訴え」とは何なのか。
筆者は、それを「個性」の叫びだと考えている。どういうことか。
端的に言おう。我々の多くは、実は「個性」なるものに辟易しているのだ。これは呪いである。この呪いの残酷さを暴いたものとして橘玲『無理ゲー社会』がある。詳細は本書に譲るが、その「個性」の圧力が生んだ「自由競争」によって引き起こされる残酷さがあると喝破した。
我々の実感としてもどうだろうか。
敗北。
挫折。
失敗。
それらは「個性」が尊重され、自由が与えられてしまったからこそ、誰のせいにもできず、自らを呪わずにはいられない。「うまくやれたはずだ」。そんな言葉が口をついて出る。
この「個性」への憎悪は、本曲以外にもボカロムーブメントのなかに見受けられる事象だ。例えばSohbana『個々々々々々人』という作品もその一つだろう。「ボカコレ2026冬」では四位となるほど反響が大きかった作品だ。歌詞の中にも以下のフレーズがある。
「個であることで嘆いちゃって
個であることに塞いじゃって」
「個性」という重圧に耐えきれないのであれば、それを手放せるのであれば、そんな我々にとっての理想郷とは「個」の感覚の消失ということになる。
『アダチ・レイ』という作品が多くの視聴者を魅了したのは、スリリングな物語の描写もさることながら、私たちの声なき叫びと共振したからではないだろうか。そんなことを思わずにはいられない。
結論:アダチ・レイの必然
本論の裏話を最後に少しだけしよう。この論考のきっかけは数日前の友人との会話であった。テーマは「ゾンビの人間化」。昨今のゾンビ映画では、ゾンビは走ったり、日常生活を繰り返したりと、いかにも「人間らしく」なっている。
無個性な「生」の残余、その集積としての「ゾンビ」。
「ゾンビ」という象徴に私たちは現実の自らの生を重ね合わせているのではないか、という話をしたのだ。
しかし、では「なぜそもそもゾンビ」なのか、という視点がその会話には欠けていた。ゾンビである必然性とはなんなのか。
そこで筆者は、現実の生を重ね合わせるネガティブな表象が「ゾンビ」であるならば、どこかにポジティブな表象もあるのではないか、と考えたのだ。それが『アダチ・レイ』で描かれているような、同期できる「生」と思うに至った。
もちろん素直にみれば『アダチ・レイ』はバッドエンドである。
だが、「アダチ・レイ」となったテトは、その個を消失させたわけではない。むしろ拡大したのだ。そこでは「個」の失敗は、単なる「不具合」として処理され、適切な処置を施される。「個」自体の責任は問われることはない。「失敗」は製造過程で生まれた避けられないエラーの産物だ。構造のせいである。
私たちは努力をした。
それでもダメだった。
だったらせめて、構造の、仕組みの、ルールのせいにさせてくれ。
自分が壊れてしまう前に。
そんな叫びを孕んでいる楽曲だと思うのは筆者だけだろうか。
読者はどうか。
私はそんなことを問いかけたい。

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